八正道
八正道
八正道について
「この法話は、宮城県仙台成田山で人生占いを行う、根本的な方針になっているものの1つです。宮城県仙台成田山へ人生占いを申込みを考えている方や、人生占いをお願いしようと思っている方は、このような主旨に目を通して、人生占いのお申込みを考えていただければと思います。」
私どもは常に行動しています。
そのとき、この行動というものがやはり一番基本になるわけで、どういう行動をとると人間は豊かな環境が持続できるのかが大切です。
木に登って棒を求めると言う言葉をよく聴きます。
これは大変、トンチンカンだという意味で使われるのが常です。
木に登っても魚はいるわけがありませんから、ただ、木の上に登ってるのはやっぱり鴇、ハゲワシとかいるわけですから、決してそれはどうも間違いではないわけですけれど、私はその逆にですね、木に登ったほうが魚がいるような気がするのです。
海の中の魚を、釣ってやろうと思うと意外と大きな間違いを起こします。
バブルが、そのような感じがするのです。
何かこう、儲け口があるとか、なにか割と儲かるとか、頭の中で考えて動いていく。
そうすると、どうもそこに間違いがある気がするのです。
そういうとこへ走っていっておかしくなる。
ですから一時よい夢をみてても、後から大変困る方が出てくるのです。
どうにもならない人もでてきます。
それで、実際経営というのは継続するもので、長くやらなければいけません。
長くやるには、頭で考えて景気の動向とか、そういうことで動いていくことです。
こういうことは私はあんまり良くないんではないかと常々思います。
特にこの情報化時代に、情報量が多くなりすぎると何かそわそわします。
一番いけないのは毎日株が上がったとか下がったとかです。
それから円が上がったとかドルが下がったとか、株式が1円上がったとか、1円下がったとか。
毎日どうしてあのようなことを言うのでしょう。
1円上がろうと2円上がろうと大した事はないのです。
本当は、そのようなことを言ったら少しおかしくなりますけれども。
そのようなことで、一喜一憂して儲かったとか動いたとか言う人もいるわけです。
それは否定しません。
そういう資本主義の基本である市場原理も大切ですけれど。
現実の経営というのは、そういうところからものを見るのではなしに、もっと、しっかりとした土台というものをみている、このように思います。
私が一番好きな言葉は、この不易流行という言葉なのです。
これは、俳句の真髄とも言える言葉だと松尾芭蕉が言われております。
俳聖・松尾芭蕉が俳句の心を見事に言い表しています。
(不易流行の意味。いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。
つまり、変わらないものと変わるもの。
こういうものが世の中にはある。
変わるもの、変わらないものが一丸となって進んでいく。
対話として大切だと思うのです。
これは俳句だけではないと思います。
人生は有限であり、どんなに生きても120歳くらいです。
その中で、やはり常に豊かな生き方をしていきたいと願うわけです。そういうときです、先ほどの言葉でいう不易、即ち変わらないものがあるというのは、人生において豊かな変わらない願いを持続してゆく智慧です。
変わらないものをしっかり持っている方、これが智慧です。
次いで、流行と言うものは、常にその時々で変わるものです。
変化するものを捉える。
逆にこちらは知識でよいです。
知識も大切です。
智慧と知識を両方持っている。
こういうことをすれば、この世は豊かに送れるのです。
この流行というのは、現実の様々行われる景気などの変化ですから。
それには基本的な不易の部分、智慧の部分を持っていれば、いかなる時にも対応できる、こういうことなのです。
この八正道は、人間の行動の不易の部分、この8つの実践をしていれば絶対に間違えないという、こういう智慧なのです。
ですからこの8つを会得しますと、大変な財産が自分のものになるということです。
この一番大切な実践というものにつきまして深く展開していこうと思います。
問題に直面したとき
私たちは常に問題に直面しています。
あなたも、今も何かの問題を持っておられると思います。
問題というのは一つ解決すると、必ず次にまた問題が出てきます。
ですから「問題というものの上に私どもは乗っかっている」と思ったほうがよいのです。
そのほうが正解かもしれません。
ここのところ、問題のところが、今私どもがいるところです。
問題が発生した、その時、次の一手が重要なのです。
次の一手をどう打つかによってその先が全部変わってしまうのです。
お気をつけください。
問題が起こるというのは常にありうることなのです。
その時に次の一手を間違えると、その間違った次の一手によって、また次を間違う…と、どんどん間違ってしまうのです。
悪いことが起こる人というのは、次々に悪いことが起こっています。
それと同じで負の連鎖となるのです。
その時にどうしたらよいのか、明確に答えを教えましょう。
皆様に問題が発生したときにとるべき道は「八正道」か「その他」という選択肢です。
しかし「その他」というのも失礼でございますから、合理的解決実践、つまり今までの経験測ですとか、頭の中で考えたもの、または本を読んだり「こうすれば成功する」などといった問題解決法など、その類のものでいくかの、その2つに分かれます。
どっちをとるか、これだけなのです。そう難しくないのです。
人生はそう長くはないですから、あんまりあっちにしようかこっちにしようかと常に間違った方向に行くよりも賢明だと思います。
八正道をとるかその他の行動をとるか、問題が発生したときこれで決まってしまいますが、ここでは八正道をとった方は、もうご安心ください。
問題が発生したら迷わず八正道で展開すれば、必ず豊かな世界に到達できるということです。
これが実は、この不易の部分。
では、こうしたものが、いつ、どんなときにあなたがが会得できるのかということが問題なのです。
迷いに迷った末、だいたい八正道を会得するのはもう…黄昏れる50歳過ぎから60歳近くでやっと分かる。
分かった頃にはもう力も無くなっていて終わりである、と。
ですから、いつでも年にかかわらず八正道に出会えていればよいのです。
できるならば、なるべく早い時期に八正道に会ったほうがよいのです。
ただ、八正道をやるのなら、25歳より若いときはやめたほうがよいのです。
25歳まではいろんなことをして、世の中のありとあらゆる問題に対して悩んだほうがよいのです。
25歳までの方でしたら、八正道をやる前に、もっと自分の意思によって自由に動いたほうがよいです。
けれど、今は危ないです。
今はエイズというものがあります。
これだけは十分注意をしてください。
昔はよかったです、やんちゃしても何やってもだいたい問題なかったのです。
ちょっと刑務所に入るくらいなら、なんをやってもいいような気がします。
けれど、エイズだけは「すいません」では済まないですから、それだけは気をつけてください。
あの病気は…なんて私が言うことではないんですけど、空気感染などではないです。
昔、ペストやコレラなどが流行りましたが、あれはかわいそうです。
自分で一生懸命に注意していても、風が吹いたりちょっと触ったりしただけで感染してしまうのですから、不運だとしかいいようがないです。
しかし、今回のエイズだけは自分の意思で何とでもなるのですから、回避できると思うでしょう。
でもできないのです…だから、八正道なのです。
大病になったら
自分の意思で解決できる問題だと思ってることで間違うのです。
テレビで「エイズを追う」という報道がされてますが、あれはだめです。
あれは人間の基本が分かっていないのです。
何故エイズがアメリカで爆発的に起こっているか?あれは人間の本質がわかっていないからです。
今のままで流行を止めることは無理なのです。
これからも増えます、無くならないのです。
無くなるどころかもっと増えます。
これは人間の本能に根ざした病気なのですから。
そして、人間の向き合う心が必要な病気です。
それがなかなかできないから、もっと増えると思います。
そして、例えば、エイズになってから八正道をする。
こういうのはいけません。順序が違っています。
間違っているとは言いませんが、問題がすでに1つ起こってしまった後なのです。
どんどん間違うことの1歩目です。
病気そのものではありません。心がどんどん間違うことの1歩目なのです。
ですからその前に気が付かないといけません。
「わたしエイズなんて知らないし関係ない」という人が居るかもしれません。今、「エイズ」という「例え」を使いました。
わざと「関係なさそう」「非日常的」そうなものに例えたのです。
- 「エイズ」なら関係ないですか?
- 「癌」なら関係ないですか?
- 「風邪」なら関係ないですか?
- 「自分がエイズ」なら関係ないといえますか?
- 「自分が癌」なら関係ないといえますか?
- 「自分が風邪」なら関係ないといえますか?
基本的なことは、それ以外のことも同じなのですから。
日常生活根本的なこともすべて問題は変わらないのです。
ですから、問題発生、次の一手に迷っていないかなのです。
問題が発生した、そのときの一瞬です、本当の問題は。
問題が発生したときの次の一手が大切なのです。
問題が発生するというのは、なにか困ったことですから、そのとき次の一手で回避しようとするのです。
そうすると、次の一手でだいたいすべてが決まってしまいます。
ここまでが第1番です。
2番目は正しい格差戦略と人生ビジネスの道です。
つまり、せっかく、この世に生を受けたのですから、豊かに堂々と生きてゆきたいです。
そのためには、そういうノウハウを持っていなければいけません。
3番目は現実環境と過去の構造が生み出したものです。
つまり、今自分の行くところを良く見ることです。
自分の環境が今、どうしようもないということであった場合、その解決策もこの中に全部含まれています。
それを全て解決するのが八正道です。
煩悩について
八正道がなぜ必要なのかという理由がここに出てくるわけです。
私どもの前に、エイズが出てきたというのは、極端に、曲論的に言えば大変ありがたいことなのです。
頭の中では分かってるのです。
エイズは悪い。
あんなものにはなりたくない。
エイズにつかまりたくない。
でも誰も悪くはない。
仮に感染したとしてもその人が悪いかといえばそうではないし、それで差別等受けるべきでもない。
だけどなってしまう、それが増える。
どうして増えてしまうのだろう。
それがなにかというとこれは人間が持っている、全ての素直な行動なのです。その表れなのです。
つまり、これは心なのです。
私どもは、心によって全てが行なわれているのです。
これを良く知ることです。
そこから始まります。
心の中には無明があります。
無明とは根本無知、つまりこの世の中のことを何も分かっていないというそういう心が基本的にこの世の中にあるのです。
そして、それを智慧によって無明を破ることにより消滅するのです。我というものが存在するという見解(我見)が無明です。
これはよいとか悪いとかということではありません。
あるということだけは覚えておいた方がよいです。
これをしっかりと認めていないと大変なことになります。
だから、清い心などと言ってる方は見当違いです。
清い心はあるとも言えるし、ないとも言えます。
正解はないのです。
キリストはそれを「原罪」と言ったのです。
人間は生まれながらに罪だと言いました。
あまりキリストの教義に接することがないと思いますので簡単に説明しますと、エデンの園において人類の元になったアダムとイヴが最初に犯したとされる罪のことなのです。
原罪といいます。アダムとイヴはエデンの園に生えている木の実を全部だべることができたのです。
ただ中央にある禁断の果実だけは食べることを神は禁じたのです。
しかし、蛇に騙されて禁断の果実食べさせられてしまったのです。
その結果、神との親しい交わりを失い、永遠の生命を失うことになったのです。
以後、子孫の人間もその行動の結果が引き継がれることになったため原罪から逃れることができないのです。
本当に分かりやすいです。
人間は生まれながらに原罪を背負っていると、もう見事にキリストはキリスト文庫から抜粋するわけです。
要するに、それを旧約聖書ではアダムとイブで語っている訳です。
このおとぎ話の中でも「
- 「
貪 」は貪りたい。 - 「
瞋 」は気概いたい。 - 「
癡 」は怠けたい。
無始について
では仏陀は、仏教ではどのようにいったのでしょうか。
それは「
「無始よりこのかた」という捉え方は大変素晴らしいです。
「無始」とは始めが無いことです。
つまり開闢(かいびゃく)以来、宇宙開闢以来の無始よりこのかたと言うことです。
宇宙開闢以来「貪」「瞋」「癡」というものが私どもと共にあるのだという考え方です。
しかも、今も私どもと共にあります。
こういう唱え方、これをよく認識することです。
私どもは「貪」「瞋」「癡」という、心の中に基本的な欲望を持っているということを忘れないで下さい。
- 「
貪 」という字は貪りの欲望…おいしいものを食べるともっと食べたい、綺麗な着物を着るともっと着たいという欲です。
自分には伴侶がいるのに、他の男女にうつつをぬかしてそっちに走ってゆく…それが貪欲の貪と書いて「とん」と言います。 - 「
瞋 」ですが、これは怒りの欲望です。
怒りによって相手を制覇する、それが瞋であります。 - 「
癡 」というのは楽して儲けたい、怠けたいというこの気持ちです。
いかに楽して儲けるか。怠けて儲けるか。
でもそういう方は意外と抜けてるのです。
これを癡と言うんです、楽して儲けたい。
ですから、バブルが癡です。
それから、瞋というのは親子喧嘩。親殺し、子殺しなどは瞋です。
そして、癡というのはバブルです。
「貪」「瞋」「癡」を私達は毎日見ています。
でも考えて下さい、ニュースや新聞、雑誌の社会三面記事はこればかりです。
全部をこの3つ「貪」「瞋」「癡」で埋め尽くしております。嫌でも毎日見ています。
もう社会三面記事どころか世の中は全部この3つ「貪」「瞋」「癡」で動いています。
この心がなぜ悪いかというと、これには重要なものが隠されているのです。
それはなにか。
仏陀という方は、20世紀後半の為に、宇宙の真理や智慧と我々とがどのように関わっているかというシステム的なものを、わかりやすく上手に適用化してくれました。
神は必要ございません。
絶対の神とかいう訳のわかんないものはいりません。
流行しましたノストラダムスも必要はないです。
しかし、人間は愚かにできているのです。
すぐに何か不安があると、心配事があるとそういう「絶対的なもの」を欲しがったりします。
そういうものはいらないというのは立派です。
私達は2000年後、2500年後の日本人というものは信じないです。
キリスト教信者は日本には3%くらいしかいないのです。
私は、あまり好きではありません、神を信じるとか。
信じないけれど、私はその道理が好きなのです。
「どうしてそうなる」というのはしっかり知っているのです。
お釈迦様というのは、道理によってこの世の中全てのしくみを解明して、人間がその中でどうしたら豊かに生きれるのかということを分かりやすくシステム化した人なのです。
私達は、仏陀に会えることは永遠にないのです。
実際、仏陀に会えません。
これからもありません。
しかし、仏陀に会っているとも言えます。
それは、現在、いまこの瞬間、仏陀の智慧を通して仏陀に会えています。
それで、この2つの関係が大きな問題を生むのです。
「
宇宙の持っている真理というものはなにか。宇宙の持っている真理というものは、私達を取り巻く人生における全ての出来事が「空」でできているのです。
人生の本質は「空」です。
空について
「
これは知っておかなければいけません。
この世の全てのものは実態がないことです。
世の中全てのものに実態がないという法則、それが「空」です。
「この世の全てのもには実態がない」という上に乗っかっているのが人間です。
そして人間の本質は、心に「
肉体的実践については、殺生、楡盗、邪淫です。
人は殺すし、傷つける。誰も見てなきゃ物を盗む。脱税や不正な取引はする。
そして、
こういうことをしている、それが人間の本質なのです。
黙っていればこういう形で上に行くわけです。
素直に上のほうの人間の本質でございます。
ところが、下の土台が「空」ですから、実態がないですから、どういうものが出現してくるのでしょうか。
「空」というベースに乗っかって、私達が本質の「貪」「瞋」「癡」を持って動きますと、現実環境が生まれてきます。
こういう仕組みなのです。
番号を付けるとすれば、まずはこれで動きますから本質が@というところでしょうか。
Aが土台の「空」。
そしてBが現実ということになります。
この@ABが分かっている方もいます。
こういう方は、現実環境とは人間の本質で「空」にぶつかってできていると理解できるわけです。
では、現実環境とはどのようなものか。
- 気がつけば老人になっていたという「老」の苦しみ。
- 邪淫によってエイズになったり病気になったりという「病」の悩み。
- 今最も関心がある「死」という問題が挙げられます。
- こんな世の中にどうして生まれてきたのかという「生」の苦しみ。
そうすると、人間は不安に
いったい私達はどこから来てどこに行くのだろう…。
頼んで生まれてきたわけでもないのに…。
お願いして生まれてきたわけでもないのに…。
この4つの苦しみが、そのように考えると私達の周りの近くに出現してきます。
- 「愛別離苦」愛する人と別れる苦しみがります。
- 憎い人と会う苦しみ「怨憎会苦」があります。
- 「求道得苦」は、得られるものが得られない悲しみのことです。
- 「五蘊盛苦」私情執着からの苦しみ、つまり本能を制御できない苦しみです。
まずこう捉えてしまう。
年を取る苦しみがある。
病気になる苦しみがある。
そして死んでしまうのだ。
どうしてこんな世の中に生まれてきたのか。
こういう4つの苦しみが私たちの周りにはあるのだと堂々と捉えるのです。
さらにその上に、先に述べた愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の5番目から8番目の苦しみがあるわけです。
それらを経営に置き換えると、怨憎会苦はある日突然起きるかも知れない競合と言い換えられます。
それから愛別離苦はお客様が離れていってしまうことと言い換えられます。
そして、得るものが得られない求道得苦は利益を出そうと思っても利益が出ないとか、いい商品が欲しい、売りたいと思ってもそのいい商品が手に入らないことや、いい人に働いてほしいと思ってもそういう人材が来てくれないことにたとえられます。
さらに、五蘊盛苦は、ちょっと良くなって動きだすと、またすぐおかしくなるという繰り返しでいつまでたっても安定しない、不安の続く様子や自転車操業を指します。
まさにこの8つのことは、人生と経営の状況です。
しかもこれは全部「苦」であるということを覚えていてください。
そしてここから「一切が苦である」という心理が生まれてくるわけです。
なぜ八正道が必要かを解説しました。
けれども、心の本質を解明せよというところの答えは、心の本質は「
この答えを知っていることは、人生の勝利者で賢い方です。
- 「貪」は「むさぼりの欲望」
- 「瞋」は「怒りの欲望」
- 「癡」は「楽して儲けたい」
害毒「四苦八苦」について
心が生み出す害毒とは何か、と言うと「
この「
そして「四苦八苦」の本質が「貪・瞋・癡」ということになります。
心が生み出す害毒「四苦八苦」は、他人に対して迷惑をかけず、自分に対して迷惑をかけます。
基本的に「四苦八苦」というのは、自分に対して自分が迷惑をかけて「四苦八苦」という世界を出現させているのです。
年を取るにも年の取り方があります。
人生は人によって違います。
年の取り方も違いますが、それでも大道というものがあります。
「貪・瞋・癡」で年を取るか。
「八正道」で年を取るかで、大きく違います。
病気だってそうです。
「貪・瞋・癡」で病と戦うか。
「八正道」で病と戦うかで、大きく違います。
本当に違ってきます。
死もそうです。
「貪・瞋・癡」で死んでいくか。
「八正道」で死んでいくかによって、大きく異なります。
そして、生きることも同様です。
何故生まれてきたか、なぜ生きないといけないのかということを考えたときに「貪・瞋・癡」で考えていたら、いつまでたっても解決は出来ません。
「八正道」で生まれてきたこと、生きていくことを考えないといけないのです。
苦しみがあった時にも「
なんとかなるだろうと思って解決することと、八正道で思って解決することは大きな違いです。
愛する人と別れる。
これは確実にきます。
誰にでも来ます。
そして、それは互いに来ます。
これはどんなことがあっても覚悟しておいたほうがよいのです。
しかし、覚悟というのは、常日頃からきちんと思っていなければ駄目なのです。
その時、突然、思うからおかしくなるのです。
その時にもきちんと「貪・瞋・癡」で覚悟するか、八正道で覚悟するかで違ってきます。
そして得るものが得られない苦しみを我慢するのかというとそうではないのです。
「貪・瞋・癡」で得るものを考えているからいつまでたっても貧乏なのです。
八正道で考えると莫大な利益が入って来るのです。
ちょっとした発展を「貪・瞋・癡」で展開していくと絶対にこのままなのです。
逆に、発展を八正道でするとさらにその発展の先があります。
どうしてか。八正道という考え方によって発展して発展して発展しても、そして、なお、土台がぶれないからです。
知っているからです。
人生に関わる八大分野について
あなたの土台は何かということを考えてみましょう。
これが「空」なのです。
それを忘れてはいけないのです。
あなた自身の土台は何ですか?と問われた時「それは空です」ということです。
じゃあこの空はなにでしょうか。
これは、実体がないものなのです。
これは人生全てのものが実体がないということを描いてます。
人生にどういうものがあるのでしょうか。
人生というものには8つのものがあります。
まず、結婚です。
結婚というものを人生の第1番目にしたとします。
- 結婚
- 仕事
- 経済
- 家庭
- 社会
- 人格
- 教育
- 遊び
これが「空」で出来ているのだという事です。
この世のすべての物事は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成しています。
つまりこの因縁の関係性こそが「空」そのものなのであるという考え方です。
そうでなくてこの逆の考え方を「有」という考え方をしています。実体が有るという考え方です。
これが分からないとこの話はちょっと難しくなってしまいます。
この「有」というのは、自分の都合のいいことで物事をやめるということです。
つまり、自分の都合のいい所イコール自分の都合の良い所で考えることです。
一番自分が都合がいいなと思う所で考えを止めてしまう、楽なところで止めてしまう、つまりそれは、停止してしまうことです。
ですから、人生を構成する八大分野がありますが、そのうちの、一番自分の都合のいいと思う所で、そのままストップしてしまうのです。
もっと分かりやすく、これを戦国武将に例えてみましょう。
国取り合戦のようなものです。
いまも世界で国取り合戦をしています。
愚痴で大きく国を取ろうとする3人の武将がいますね。
「
その軍団の下にさまざまな煩悩がひかえております。
これらの軍隊はすごいです。
この煩悩の根本となる3人「貪・瞋・癡」にはじまって、私達が知ってる数は108個だと思っているでしょう。
でも、そうでありません。
私達が知らないだけで約64000もあると言われています。
しかし、もっとそれを細かく分析すれば無限にあると考えられます。
そんなにあるのなら私達人間は、なかなか太刀打ちできません。
そして、片方には「空」によって国を治めようとする武将がいます。
こちら軍隊の配下には縁(縁起)が控えています。
この世の全て(一切)は、直接的にも間接的にも、何らかのかたちでそれぞれ関わり合って変化しているという考え方を旗印に国を治めようとしています。
この世は全てのものは関わり合いで存在するいう「空」「縁」という軍隊につくのか。
片や「有」「無」という軍隊につくのか。
この2つのどちらの陣営に入るかです。
どちらの陣営で物事を考えるか。
つまりこれは、どちらを「生老病死」で行くのかということです。
- どちらの陣営の物事で生きていくのか。
- どちらの陣営の物事で年を取っていくのか。
- どちらの陣営の物事で病と向かい合って行くのか。
- どちらの陣営の物事で死を考えていくのか。
ここは人生の捉え方が「空」「縁」と言う武器で戦って行くのか。
「有」「無明」という武器で戦っていくのか。
無明 とは
無明の闇をなくし、心の中を明るくすることが仏教の悟りにつながります。
仏教では、人間はすべて
幸福になるには、とらわれない心を、自分の心にしっかりと確立する以外に得られないのです。
自分の無明を認めた者、自分の
例えば、草や木を材料として建物を建てます。
建物が出来上がれば建物があることになっています。
しかし、この建物を分解して草や木にしてしまえば、建物はないことになります。
つまり、建物は「存在している」とも言えるし「存在していない」とも言えるのです。
この世のすべての物事は相互に関係性の因縁によって結びつき、あることがらを構成しているのです。
この因縁の関係性こそが「空」というものです。
それをお釈迦様は言っています。
自由の意思を持って、そして、有というものの上に無明という武器を持って動くと何が出現するかと言うと、この関係からは出現するのは四苦八苦が出現するはずです。
自分の生まれてきた間、ずっと今までの過去の歴史を省みてください。
そして、思い出してください。問題が起こります。
その時、厄介な時が必ず問題が「有」ると考えます。
その時には、私達は無明(迷い)でものごとを考えていると思います。
つまり「
そして物事が素直にいってる時というのは、私というものが存在するということすら忘れて動いているのではないでしょうか。
私というものがない時、つまり私は良縁に結ばれて動かされているという時に、大変、楽しい環境が出現している事が分かると思います。
これは「空」出現のメカニズムの最もさえたるところです。
つまり私達のメカニズムなのです。
こういう仕組みを、しっかりと持って理解してください。
これが分からないと、この話はないのです。
知識だけになってしまうのです。
つまり今自分の置かれた環境をこの8つ実践を活用するとこの苦しい環境から脱出できるという事なのです。
ですから大変なのです。
まったなしなのです。
これからのことが全部これにかかっている訳なのです。
ですからこの実践行動を八正道をとっている方はこういう今おかれている状況というものが除々に消えていきます。
これは頭で考えてもだめなのです。
年を取らなくなって病気になっても死なないことはないのです。
でも、こういう8つの苦しみから解放されるということなのです。
聖なる真理
素晴らしい事を説いたお釈迦様です。
それはいったいどういう事を説いたかというと、これが有名な初転法輪(しょてんぽうりん)というものです。
これはすばらしい経典です。
これがブッタの経典中の経典です。
この経典は最もシンプルで人間を豊かにする経典はこれしかありません。
これは後に経蔵、律蔵、論蔵と出てきますがそのうちの律蔵というものです。
律蔵の台本のところで最初の巻頭に近いところを飾るものなのです。
これはどこで説いたかというとブッダが35歳のときヴァーラーナスィーのサルナート(仏教の4大聖地の1つ。ルンビニーが生誕所。ブッダガヤが成道所。サールナートが初転法輪所。クシーナガラが涅槃所。)において説きました。
この初転法輪で最初にお釈迦様が自分の法を説いたその時の経典なのです。
実にわかりやすい教典でございます。
ブッタはカピラヴァストゥで国家を形成していた釈迦族の王族の出身です。
このカピラヴァストゥ国の城主シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーを母として生まれました。私生活において一子ラーフラをもうけたことで、もうよいだろうと思うのです。
そして、29歳の時、王宮を抜け出しました。
そして出家して6年の修行の間、苦行を積みました。
もう想像を絶する苦行をしました。
ウルヴェーラの林というところで苦行したわけです。
でもブッタは王族ですし王子ですから、急にそんな苦行するといっても周囲はみんな心配します。
きっとすごく止められたでしょう。色々葛藤があったと思います。
そして、父・シュッドーダナはブッダの警護も兼ねて5人の沙門を同行させました。
6年苦行を積みました。
でも、それではこれではだめだとこの苦行をしても障害から開放する知恵は浮かばないと辞めてしまった。ブッタは、苦行だけでは悟りを得ることができないと分かった訳です。
そして、村娘のスジャータより乳がゆをもらい食べました。
そしてここで、体力を回復して心落着かせ悟りを開くのです。
近隣の森の大きな菩提樹下に座し、12月8日、遂に叡智を極め悟りを得て仏教が成道しました。
けど、それを見た5人の仲間は、もうブッダは堕落したと思うのです。
1人で修行してたのではなく仲間と修行していたのですから。
そして、頑張って食べ物を食べないで苦行してきたのに、ブッタは乳がゆを食べてしまいました。
裏切られたと思ったでしょう。堕落したと思ったでしょう。
だからブッタをおいて鹿野苑へ行ってしまったのでした。
落胆したのでした。
しかし、ブッタは悟りを開きました。
この悟りは誰が誰に降りたか分かるでしょう。
そうしているうちに考えた結論は、そうだ一緒にやった仲間だったらこのことがわかるだろう。
そして270キロメートル7日間かけて仲間のところに行きました。
そして仲間と会うのですけれど、はじめ、この元修行仲間は、修行を捨てたブッタが遠くから来るのを見て、拒みました。
ブッタの言うことはもう駄目だと思っていたのです。
けれど、近くに来るにつれすごくなったぞ、という形になりました。
ブッタはやはりそういう方なのです。
しっかりしていて、悟ったことで風格風貌も変わってきたのでしょう。
これが不思議なのです。
また、一緒に修行していた人達もブッタのすごさがすぐに分かるくらいですから、やはり、すごかったのだろうと思うのです。
ですから、ブッタが徐々に近づくにつれ、その堂々とした姿を見て畏敬の念を抱き、自然に立ち上がって座に迎えました。
自らがブッタであることを宣言したブッタはその教えを受けることを拒む元修行者を説得し、最初の説法をしました。
有名な初転法輪のところです。
その時説かれたブッタの最初の教えは次のようだったとされています。
経典には次のように述べられています。
「弟子達よ。これら2つの極端は出家した者が近づいてはならないものである。2つとは何であるか。それは1つには、もろもろの欲望の対象においての歓楽の生活に耽ることで、下劣で、卑しく、凡俗の者のすることであり、聖なる道を行う者のするものではなく、真の目的にそわないものである。また、それは2つには、自分をしめる事に耽ることで、苦しく、聖なる道を行う者のするものではなく、真の目的にそわないものである。弟子達よ、これらの2つの極端に近づくことなく、如来は中道を悟った。この中道は、真理を見る目を生じ、真理を知る知を生じ、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃へと導く」
これは、矛盾する2つの極端な概念に偏らない自由な立場による実践をしようというものです。
たとえば、ブッタは厳しい苦行を6年間しました。
そのように、極端な厳しい修行だけすることではありません。
また、それと反対に、楽しいこと楽なことだけの快楽主義に走るのでもありません。
目的にかなった修行方法をとることを言ったのです。
それでは、極端じゃない行為とはどのようなものなのか。
どのような行為が中道なのか。
ブッタは「八正道」と呼ばれる教えを述べました。
「すなわち八つの正道である。
- 正見
- 正思
- 正語
- 正業
- 正命
- 正精進
- 正念
- 正定
また、次に釈尊は仏教の根本的な教えである「四諦」と呼ばれる説法を述べました。
4つの聖なる真理のことです。
すなわち四諦(四聖諦)です。
- 苦諦
- 集諦
- 滅諦
- 道諦
この苦聖諦という真理はこれは、聖なる真理ですから、苦聖諦 、つまり苦しみを知るという事も聖なる真理なのです、ということです。
ここのところが大事なのです。
この真理なのですから。
思考の停止
真理を簡単に言うと次のようになっています。
ブッタは次のように述べています。
「苦しみに関する聖なる真理とは次のようです。
- 生まれることの苦しみであり。
- 老いる事も苦しみであり。
- 病むことも苦しみであり。
- 死ぬことも苦しみであり。
- 憎いものたちと会う事も苦しみであり。
- 愛する者達と別れることも苦しみであり。
- 求めても手に入らない事も苦しみであり。
- 要するに執着をおこすもとである心身環境すべても苦しみであります。
これは何をいっているかといいますと、前に述べたその結果の事実を言っている訳なのです。
ここから、1からつながっていくこと。
ブッダは、前の所から生まれるところからそこから言っております。
きちんと生まれることの苦しみです。
そこから1へ戻ります。
老いることの苦しみです。
悩むことも苦しみであり、死ぬことも苦しみです。
憎いものたちと会う事も苦しみであるといっております。
愛する者達と別れることも苦しみです。
これは要するに執着をおこすことです。
心身環境のすべてが苦しみです。
それで逆にこういう難しい言葉は、中国人がこの原点からつくり上げた言葉なのです。
サンスクリット語で書いてあります。
これはインド語ですから、それを中国人がご自国の言葉に訳しました。
漢文に訳したのです。
中国人は、色々言われている国ですけれど、きちんとこの古代インドサンスクリット語を自国の言葉に直したのです。
苦労の末、仏教をもたらしたのです。
これらの言葉はすべてを表しています。
これから逃げようと思ってはいけません。
これをまずしっかりと知ることが大切なのです。
普通の人はほとんど分かっていないし分からないでしょう。
これはお釈迦様しか分からないことです。
私達はただ、嫌なものから逃げようと必死なのです。
正面からきちんととらえられない。
それが悲しいとこなのです。
分かっているけど、なかなか出来ないのです。
目を逸らしたいです。
そして、いつかは自分も死ぬものであるのに、お通夜なんかでは「あのばかやろう。なんで死んだ。」
一杯呑んでいうわけです。
自分だっていつかすぐ死ぬのに。
あのばかやろうなんて言っているわけです。
死に向かい会えない。
怖いのです。
恐ろしいのです。
目を逸らしたい。
知らないふりをしたい。
考えたくない。
思考の停止。
だから本当に、私達は真理を知らないのです。
負の原因
苦しみに関する聖なる真理の第2弾は、苦集諦です。
苦しみを引き起こす原因に関する聖なる真理のことです。
きちんとこれを知ってる人がいれば、本当にたいしたものです。
負の原因を生み出している真理。
無料占いをご希望の皆様、人間っていうのはね、なにが起こっても原因をすぐに知りたがるのです。
株が上がっても原因を付けて、株が下がっても原因を付けて…。
原因が解ると安心するのです。
納得しやすいのです。
原因が解らないことがおこることは怖い。
だからお化けや幽霊が怖いのです。
おばけというのは要するに原因がないのです。
必ずあそこにいるんだってなればいいのです。
ところがお化けは、いたりいなかったりします。
人によって見えたり見えなかったり。
場所によっていたりいなかったり。
そういうのは困ります。
予測できません。
不安です。
原因が分かれば結果が分かり、とても安心するのです。
まさに、この苦しみは結果の事実です。
その真の原因はこれです。
ですが仏陀も次のように言っています。
これまさる真理はないと。
「弟子達よ、苦しみを引き起す原因に関する聖なる真理とは次のようなことである。これは再び迷いを導き、喜悦と貪欲とを伴い、あちらこちらに快楽を求めていくようなものである。すなわち、愛欲と生存欲と権勢繁栄欲である。」
これは見事に
貪瞋癡の事をいっている訳です。
見事にこれです。
この結果がこれです。
苦の根源は煩悩や執着や妄執、欲望であることが苦の原因の真理であると言ってるのです。
苦しみにを消滅することへ導く道に関する聖なる真理の第3弾は、滅聖諦です。
次のように言っています。
「弟子達よ、苦しみを消滅することに関する聖なる真理とは次の通りである。その欲望は完全にはなれ去り、消滅することである。」
と言っているのです。
では解決策はどうするのか。
次のように言っています。
「苦しみを消滅することに関する聖なる真理とは次の通り。
- すなわち、その欲望完全に離れ去り消滅すること。
- すなわち欲望を棄捨すること。
- 捨離すること。
- 離脱すること。
- 執着を去ること。
苦しみを消滅させるには執着は捨ててしまいなさいというこういう仕組みです。
執着を捨てるとこの苦しみからの開放です。
これがこのページのこの仕組みで話すと分かりやすい。
今、あなた苦しいでしょう。
苦しい原因は
では、どうすればこれがなくなるのか。
苦しみから解放されるのか。
上がれるのか。
すなわちこの欲を捨てなさい。
執着を取りなさい。
そうすればあなたは苦しみから開放されます。
この執着を捨てなさい。
これは、大変なことを言っているのです。
すごく分かりやすいです。
20世紀を生きている我々でも、そして、これからの将来の我々にもわかりすいです。
結果の原因があると、結果の原因っていうのは真の原因があるのです。
真の原因がこれじゃないかと言っているのです。
これだっていっているのです。
執着
ブッダの話は、この原点をこうして唱えながらしています。
しかも分かりやすいです。
そんな難しいことは言っていないのです。
それを、いつの間にか学者とかが難しくしてしまいました。
大変わかりやすいと思います。
その欲望が完全に離され、消滅することである。即ち、欲望を棄捨すること、離脱すること、執着を断つことだと言っています。
つまり、そうすればあなたはこの豊かな世界で、それをこの世界が悟りの世界になるという訳です。
ところが、人間はこの世界で一番頑強なのは、この2つなんです。
これが頑強です。
もうこれは絶対になくならない。
なぜかというと、これが人間の本質ですからキリストが言う原罪が見事にそこに当てはまります。
それをいともブッダは、苦しみが生まれてくる「苦の原因」から「苦」が生じてくるんだから、ということで目標設定してくれています。
「苦の滅を実現する道」から「苦の滅」から、そして、解決策をこう言ってくれています。
解決策を提案してくれています。
ところがこれはあくまでもこの苦滅したいというのは、それはそうしたらいいですよ、という願望提案なのです。
こんな一言でいくらお釈迦様が言ったから。
欲望を知ればいいのです。
執着しなければいいのです。
それは解ります。
大人になれば。
60歳になった人はこれぐらいは分かります。
しかも、ブッタは出家の世です。
全ての自分の累計を全部切り離して。
価値観を全部捨て去ったうえでしかも苦行6年の末に得た成果ですからぎりぎりと研ぎ澄まされた言葉でございます。それをこう言っている訳です。
これは不可能なのです。
人間の無始よりこのかたある本能を取ることは出来ません。
ですから、解決、実践を最後にさっとおさらいします。
苦しみにを消滅することへ導く道に関する聖なる真理の第4弾は、道聖諦。
「弟子達よ苦しみを消滅することへ導く道に関する聖なる真理とは次のようになります。
これこそ、聖なる8つの道です。」
これとこの無始より人間の心の中に巣つくっているのです。
「すなわち。
- 正しい見解
- 正しい思考
- 正しい言葉
- 正しい行為
- 正しい生活
- 正しい努力
- 正しい念慮
- 正しい三昧
これで見事に、この8つの実践においてこれを攻撃するのです。
この考え方は知らなければいけません。
けれどこれを知って、頭の中でこうだと分かってもそれはだめなのです。
それを実践しなければいけないのです。
これが苦しみから逃れる方法です。
ここでは、4つの真理は前半の2つと後半の2つで二分することができるのです。
見事にこうして仕組みが分かるようになってきます。
「苦集滅道」という「苦聖諦」「集聖諦」「滅聖諦」「道聖諦」をあらわしています。
人の弱さ
八正道で人間の
これに会える方と会えない方がいます。
特にこれからの世の中は、ブッタの教えが増々、私ども日本人の本当に大切な導ちびきとなります。
世の中は増々混乱と混沌に進んで行きます。
ですから、この8つの実践さえすれば人間が基本的に持っている苦しみを生み出す原点というものが理解出来るわけです。
そして、実践できるかどうかは、なかなか難しいけれど、そのようにして行こうというものを自分の中に作っておけます。
しかし、これがなかなか解決できません。
自分の中に巣くっているものを出して悪い害毒を直すのですから。
自分で自分を退治する・・・それをきちんとと人の手を借りずにやろうとすることは大変です。
人の手を借りないのです。
他の宗教でしたら、神の力を借りたりできます。
例えば「神を信じてそうすると〜」としています。
しかし、増々これから日本人はこういう考え方をしっかり持たないといけないのです。
人間は弱いのです。
迷うでしょう。
迷うと神にすがりつきたくなるものです。
だから、世界中のもう9割は神の信心、神の力でいくのですから。そのほうが楽なのです。
神様の力のほうがよいわけです。
ところが仏教というのはブッダの智慧です。
仏教は他の宗教と決定的に違う一つの要素があります。
仏教はブッダの智慧であると同時に、ブッタになるための教えなのです。
だからといって片ひじ張って仏教を信じろなんていってるのではないのです。
ただ、考えてみてください。
仏教には、ブッタの智慧には、神の言葉も、絶対神や唯一神も出でこないのです。
ただその方法をどのようにしたらよいのか、記したわけです。
仏教はブッダの智慧であるのと同時に、ブッタになるための教えなのです。
それを信じるのです。
これが信心です。
祈るだけ、信じるだけなのです。
これだけしか言っていないですから、考えるところだけなのです。
お釈迦様は自分の開放、要するに苦しみから解放する手法はこれだけしか言っていないのです。
これ以外のことは後の人間の創作なのです。
これから、導き出された創作なのです。
この1枚の文字にも満たないこれだけしか言っていません。
ここには「絶対的な神」は出現しません。
まさに人間の行動によって私達は豊かになれるという、そのことだけなのです。
まずこの最初のこの苦しみが全部解決してくれるのです。
これ以外の苦しみはないのですから。
世の中にはこの8つの苦しみ以外に苦しみはないのです。
悟りへの到達
まだたくさんの苦しみがあるではないかというわけの分からない独学者がいます。
前の
根本的な苦しみである生、老、病、死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦…全部こんな感じなのです。
苦しは全部このような感じなのです。これに集約され大別されるに過ぎないのです。
会社を興した社長としてみてみましょう。
会社を興しました。
一生懸命やって支店を増やしました。
古くなったから設備投資しました。
でも、さもないことで最後には倒産しました。
そして、苦しみが残りました。
そこにはどんな気持ちがあるでしょうか。
会社興したことが原因で無一文になったのだから会社なんか興さなければよかったと。
商売うまくいってたからと支店増やしすぎたのがまずかったのか。
こんなはずじゃなかったのにと思う。
そして、古くなっかたから設備投資しなければよかったな、そうすれば資金繰り大丈夫だったのにと思う。
そういった気持ちがいったりきたりします。
そのようなのが四苦です。
だんだんそうやって自分の会社を広げてきた事を思うとそこにおけるいろいろな悩みがどんどんでてきます。
でも、そのなかにはいい社員や一生懸命働く職員もいました。
それなのにスカウトされたりして離れ離れになって辞めていきました。
そして倒産でみんなちりじりばらばらになってしまいました。
商品もよかったし、うちが一番初めに出した商品なのに、近くに真似する会社がでてきました。
最後は相手が殆どのシェアを占めていました。
いい商品なのに、いい顧客になかなか出会えませんでした。
それよりもいい営業ができなかったからなのか、と。
そのようなものが八苦です。
ですから私達は、この事実の置かれた環境を直視しなければいけない訳です。
お釈迦様が見事に言っています。
全てに当てはまります。
これしかないと限定されてしまえば、私達は解決策はもてます。
解決策が現状をしっかりと分析できない時に起こる訳です。
ですからこれで苦というものは、もう終わりがありません。
だから苦しみなのです。
でも苦というのにはこういう真理があります。
例えば、真ん中に「私」と書いている図があります。
私とつながっているのはどれとつながっているかというと、私が年を取る。
私が病気になる。私が死んでしまうです。
その真っ只中に「私」がいるからこの話はものすごく現実的です。
ずいぶん身近に感じてきました。
ですから、この文章が大変な真実です。
そしてこれは悟りへ到達する体系の四つの文章なのです。
「私」から出発してるのです。
ここに全てのこの世の全ての出来事がここに存在します。
私達にとって全ての出来事の元となるものは全部これの所にぶらさがっています。
- 親がおります
- 子供がおります
- 配偶者がおります
- 友人がおります
- 会社が有ります
- 商品が有ります
- 得意先が有ります
- 仕入先が有ります
これが成り立っているものが分からないとこの話は成り立たちません。
ここの所に位置するのでしょう。そして私達もこの中にいます。
縁というものはとれないということをまず覚えてください。
十二の因果関係
ブッタはインドのブッタガヤの菩提樹の下で、四十九日間の三昧の観想に入ったのです。
そして、ついに大いなる悟りを開くのです。
これを「成道」といいます。
このブッダガヤで1ヶ所に七日間この悟りの三昧をするのす。
ブッタガヤの中で七ヶ所動くのです。
七ヶ所動きながら自分の会得した悟りを確認します。
これが有名な七・七・四十九日間なのです。
ですから、このシステム的に捉えた時に、お釈迦様が基本的に会得したこのようなことが自然にわかるようになります。
でも、苦しみが分からないとこれは分かりません。
逆に言えば、苦しみから縁が分かるのです。
そうすると、現実を捉え真の原因を究明し、解決の着地を想定して実践するようになります。
実践するというのは何かというと、原因の発見、原因を叩くという事になります。
迷いへのサイクルと悟りへのサイクルがあります。
迷いへのサイクルというのは苦が出現します。
苦がいかに出現してるかというと、これを流転門と言います。
迷いのサイクルのことを苦しみの原因である貧瞋癡(とんじんち)によって反映される仕組みが流転門と言うのです。
流転門は十二縁有ります。
十二縁とは私達が過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)の三界を
- 無明・行の過去の二因。
- 識・名色・六処・触・受の現在の五果。
- 愛・取・有の現在の三因。
- 生・老死の未来の二果。
十二因縁とし、十二縁起とも言います。
他にも十二支縁起、十二支因縁などと表記する場合もあります。
つまり、苦しみの原因というのは無明より始まり、老死で終わるのです。
そして、それぞれ相互に関連する12の因果があるということを言っていてこのような仕組みがあります。
今後、日本は長寿大国だの高齢化社会だのますます人生がながくなっていきます。
これから行く時にこの八正道の仕組みを理解することです。
この今、苦しみ結果の事実を生んでいる原因、この流れを知ることが悟りへのサイクルです。
悟りというのは何でしょうか。
これは、思っているのと違うかもしれませんしあたっているかも知れません。
また、幻滅するかもしれませんけど成仏のことなのです。
つまり悟りへの近道は成仏なのです。
日本だと成仏、成仏っていうと死後に極楽などに生まれ変わることを指すことが多いです。
つまり死というものが成仏と大変深く結びついているイメージがあります。
しかし、ここでの成仏という表現は「悟りを開いて仏陀になること」なのです。
これが成仏です。今回はその話では無いので割愛しますけれど、お釈迦様は十二縁起を開発することによって苦しみの原因を発表し、そして苦しみから解放された世界を表しました。ブッダの教えというのは、すごくシステム化してます。
恐怖心
聖書を読んだ方はいますか。
それも素晴らしいです。
でも、ただ聖書をいくら読んだって、悲しいかな、苦しまない人が出て来ない。
「信じなさい。信じれば救われます。神が必ず、絶対、助けてあげる」と言っています。
つまりそれしか言っていないんです。
それは、人間は罪を犯してしまう馬鹿だということを表している訳です。
乱暴な言い方をしてしまえば「おまえ馬鹿だからこんなこと分からないだろう」と言ってる訳です。
よほど、人間にとっても、そのほうが簡単で単純で良いのかも知れません。
でも、最後は人間死ぬ時です。
このまま死ねるか、と思う反面、これで死んだら神の域へといけるのか、と思うかもしれません。
どちらかがうそかもしれませんし、本当かもしれません。
もしかしたら騙されてるのかなあと思うかもしれません。
そのように考えればある事も無くなります。
その根本的なものは何でしょうか。
こわいのです。
死ぬ時に最後はすがるのです。
生きてるときは、ありがたい、ありがたいって言えますね。
でも死ぬ時、ありがたい、ありがたいって死ねますか。
なかなか難しいと思います。
葬式の中で、枕経というものがあります。
枕経の意味をご存知ですか。
枕経とは故人の前に枕飾を設け、末期の水を行い、印を結び、枕元で勤めるお経のことです。
いまでは死後すぐに行われる儀式の1つになってしまいました。
どうして枕経なんてするのかというと、仏教では、人が亡くなった、心臓が停止した、と言っても他の器官はまだ活動していて徐々に徐々に、少しずつ少しずつ滅していくと捉えているのですね。特に、亡くなった3、4時間以内は、人間の様々な機能がまだ働いていると考えており、そのなかでも特に聴覚機能が働いていると捉えてます。
その時間内にお経の声が、耳から入って聞こえることは何よりの安心となると考えているのです。
そして、亡くなりつつある方が不安にならないように、案内として枕元でお経をあげるのが本来の意味なのです。
亡くなった人が不安に思わないように、道に迷わないように、恐くないようにということから枕経というのがあるのです。
逆に言えば、ありがたいって言いながらみんな死ねないのです。不安なのです。
昔からそのように脈々と続いていた、ということは、それだけ、その死を迎える時というのが、怖いのです。
死ぬ時に、最後はすがるのです。
そのように考えられてきたということです。
誰も1回も死んだことがないのに、考えてみれば不思議です。
皆さんは死ぬ時、ありがたい、ありがたいって死ねますか。
でも、たぶんできませんね。わたしもできないと思います。
難しいです。
1回きりしかないですから。
やり直せないし「もう1度」がありません。
リセットすることがないのです。
そして恐ろしいことに必ず私達に起こることなのです。
誰も逃れることはできません。
金持ちも、貧乏も、老いも、若きも、頭が良い人も、頭が悪い人も誰も逃れることはできません。
その時に、死ぬ時に、今のことを全部それまでとっておくことです。
八正道で死ぬか
悩みについて
ブッダというのは結果や技術を、きちんと現実の社会から見据えた所から出発しているのです。ですから書き出しも性格に現実を押さえています。
今を見るということ、現実を直視するということから出発しているのです。
だからブッダの智慧が何故2千5百年後の今も脈々と続いているかといいますと、ブッダが悩んだことを素直にそのまま解決することを素直に表現していることで、それが続いているのです。だからいつの世の中でも、誰にとっても役立つように出来ていて、普遍的なんです。
お釈迦様は生まれてから29歳の時にこれで悩んだのです。
このところが1番最初です。
- どうして人間は年をとるのか。
- どうして人間は病気になるのか。
- どうして人間は死ぬんだろう。
- どうして私はこの世の中に生まれてきたんだろう。
- どうして、愛する人と別れなければならないのだろうか。
親愛な者と別れこと、親子、夫婦など、愛する人と生別または死別する苦痛や悲しみがあります。 - どうして、怨み憎む者と出会わなければならないのだろうか。
相手を恨んだり、逆に知らず知らずに恨みつらみを買っていたりすることがあります。 - どうして、欲しい物も得られないのだろうか。
ブランド物が欲しい、高額なものが欲しいとか思うことがあります。
本能にできないことで悩みます。
そこで、いきなり悩むのです。
年を取った人生経験の深い方ならともかく29歳の時にですからすごいです。
だからこそ、この話が、悩んだことがきちんと、しかも今の現在の私達に響いてくるのです。
昔も、今もそのまま同じことをしているのです。
そして、それを見事に解決したということです。
ですから、解決するときに何が大事ですかと言うと、八正道というものを得ること、体得することによって一番やっかいなこの無始よりこのかたより存在している私達の「悪い部分」の心を攻撃します。
ところがこれ、ブッダはものすごくうまいことを開発してるのです。
つまり、八正道を実践するにやっかいなやからを協力させてしまうのです。
ここが大切なのです。
ですからこの正しい実践のこの世の苦しみを生んでいる原因である、
ここで、大変なことが行なわれています。
つまり敵を味方にしてしまうということです。敵を味方にするってことが大切なのです。
仏教には歴史があるのです。
この頃は、よく宗教書が流行しています。
流行っているといっても、いつの世でも流行っているようです。
景気が良くなれば宗教書が哲学としてもてはやされ、景気が悪くなれば、おすがりするのにもてはやられ…といつの世の中も変わらないのです。
でも特に、今の人達は宗教という情報に慣れてます。
情報が先なのです。
昔とは逆ですね。
昔は信仰や信心があってそこから情報や知識が入ってきました。
勉強したり教えを請わなければ知識が入ってこなかったのです。
自ら積極的に前に進まなければ情報が入ってこなかったのです。
信仰や信心が先であればそんなことがないのでしょうが、そういったもを飛ばしてしまいどんどん情報だけが手元にはいる。
だから、どんどん迷ってしまうのです。
どうして迷ってしまうのでしょうか。
そしてその迷ってしまう理由が何故かと言うと、ここで2つの考え方が出現するのです。
これは、仏教の発展段階において出てくるものです。
つまり、仏教というのは、ここの解釈の仕方で捉え方次第で全部変ってしまうということなのです。
ですから、迷うわけです。
どういうふうに迷うかというと、お釈迦様が、言ったことの解釈です。
基本的にはお釈迦様が言ったのです。
これが基本なのですから。
これを無視したらもう受け流しになりますから、捉え方なのです。
捉え方です。
小乗、大乗、密教というのに分かれていますが仏教というのは一緒ですから、これは1つのとらえとして変わるのです。
例えば、小乗仏教においては何を目的とするかというと、滅せよということです。
先ほども申した通りですが、
- 苦しみを消滅することに関する聖なる真理とは次の通り。
- すなわち、その欲望完全に離れ去り消滅すること。
- すなわち欲望を棄捨すること。
- 捨離すること。
- 離脱すること。
- 執着を去ることである。」
これが一番。
それで、これが大体三百三十あるというのですかね。
それで、これからこのままずっと移動しながらくるわけです。
これが要するに東南アジアに行くわけです。
今のタイ、スリランカ、ビルマとかそういう所の部派仏教あるいは小乗仏教です。
これはお釈迦様が入滅して、しばらくしてお釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとした人々のところです。
それから中国や日本に来たのです。
日本に来てからは、そうではなくて、説かれた教えの心を生かす、ということになってきて分かれていきました。
よく例えられるのが「のりもの」です。
大乗・小乗の乗というのは、「乗り物」という意味です。
大乗は大きな乗り物・優れた乗り物、小乗は小さな・劣った乗り物という意味になります。
でもこれは、大乗仏教からみた言葉で、大変差別的な意味合いが強く、使われないようになってきました。
また、小乗というのは、大乗側から見た時言い回しで軽視して言っていることでもあります。
大事という言葉
小乗仏教は煩悩を全部、
ところが、これやるには出家しなければできません。
ずいぶん昔からそのことを言ってるし考えているようなのです。
『徒然草』の五十九段にこのようなくだりがあります。
「大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながら、捨つべきなり 」とあります。
「生れた目的を見出すために出家しよう、と考える人は、どうしても心から離れないこと、気にかかって仕方がないということも、これをやり遂げ一段落付いてから、などとは考えずに、全部捨ててすぐに行動をおこすべきだ」というようなことになります。
つまり「大事な品物」「大事な用件」「大事な人」「一大事」と私達は日常よく「大事」という言葉を使いますけど、このもともと、この「大事」という言葉は、仏教の中で使われており、さまざまな仏様が私達を救済するために出現することを言いました。
だからこのように出家する場合は、すぐに行動するのです。
例えば、家に帰って家内や家族と相談してから・・・というものではないのです。
すぐです。
出家というものはそういうものでもないし、絶対そんなこと出来ないのです。
出家したい方は妻帯の方を置いて来るのです。
貧瞋癡を無くそうと思う方、出家してください。
これで十分な貧瞋癡の修行をするのです。
出家がなんとなく分かってきました。
でも、実際現実問題無理です、無理だろうと思います。
お釈迦様ならできるのでしょうが、我々はどれだけのものなのでしょか。
それは頭では分かるのですが物理的に出家することは難しいのです。
だから、なかなか
難しいところです。
さて、大乗仏教はどうでしょうか。
お釈迦様の教えの心、精神を中心にしていこうとする人々の仏教を大乗仏教とよんでいます。
小乗仏教では今述べたように、滅することを説いてあります。
綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いである。
だから迷いのもととして厳しく自分を修行し滅すると説くのに対して、大乗仏教は美しい人や花を見て美しいと感じるのは迷いではない。
純粋に美しいと感じることを大切にしているのです。
しかし、その美しさに心をうばわれたり、捉われたりしていはいけないと説いているのです。
つまり大乗仏教は、物事にとらわれない、おおらかな心、広い心、受け入れる心があります。
そして、自分以外のことや他人を考えるという、目を外に外に向けての立場をとるのです。同じ教えでもずいぶん違います。
小乗仏教では家でおいしいものを食べてダメです。
結婚もダメ。
私欲のために我欲のために、世の中の様々な事をするから、自分の我欲のためにやる事はダメ。
いろいろ禁止事項がありました。
ところが、大乗仏教では、我欲じゃなくて人様のためになる行為をするのが八正道である訳でこう捉えたんです。
日本人がそのように捉えたんです。だからなにも出家しなくてもいいのです。
おいしいものだって、そりゃおいしいもの食べなくちゃいけないんだけど、それまで制限することはないです。
せっかく、かわいいこもいるんだから結婚ぐらいはいいんじゃないと言って。
人様の利益になったのだろう。
その時に何を気軽にしたかというと、ここにベースにしたものが空なのです。
在家仏教徒
小乗仏教はお釈迦様の言ったことだけを信じて、それをお釈迦様が言ったことをまっとうするんだよと言っています。
お釈迦様の言ってることは絶対だという捉え方です。
ところが、そうではないのです。
この世の持っているお釈迦様が言った悟り、会得したものを基本にして出家をしないでもいいというこの考え方に大乗仏教は立ちました。
そして、私が大乗が大変すばらしいと思うはここです。
それは、私達、今日は皆さん在家仏教徒でしょう。しかしブッダの言ってることは通用するということです。
出家者だけのものではないのです。
生きとし生けるものすべてのものに対して通用するのです。
そこが大乗仏教の大変素晴らしいところです。
僧侶や寺院の中に居る人だけのものではなくて、私達のものでもあるのです。
私達は出家もしておりません。
在家ですから。
我々は大乗の空というものをベースに
般若心経は智慧中の智慧です。
お釈迦様の原点なのです。見事に宇宙的世界観で構築したのが般若心経です。
全部の智が入っております。その般若心経の巻頭に、経題から入れて6行目の下とこから2番目のとこに無苦集滅道あります。
無苦集滅道。
この無苦集滅道の無のついてるという事は、大乗の苦集滅道の活用の仕方ですよという捉え方なのです。
苦集滅道を否定する方もいます。
そう捉える方はいますし、自由ですけど、これは大きな間違いです。
苦集滅道っていうのは、絶対の真理です。「これまでも、この世は全部絶対苦なんだから。だから苦集滅道もないんだよ。」などと。
こんな捉え方は、暴言もはなはだしいです。
でも、いったいどうやったら、人間豊かになれるのかって言いましたら、空だけになってしまうのです。
ですから、これは大変間違った空に溺れた考え方です。
そうではなくて、この時は、無苦集滅道というのは、この世の空なんだと、空と捉えて苦集滅道をしなさいよという事を言っているのです。
ですから、それは何を言ってるかというと、
八正道の協力者に貪瞋癡をさせることです。
貪瞋癡を失くせ失くせ、滅せよ滅せよ、という考え方はしてはいけないよ、ということなんです。
だから、無苦集滅道という苦集滅道として捉えてはいけません。
苦集滅道だけを結果の事実の真の原因は、
ですから、ここに書いてある無苦集滅道は大変すばらしい言葉です。
般若心経はまた別の機会に詳しくしますけど少しだけ必要なのでふれます。
摩訶般若波羅蜜多心経とあります。
この般若心経のこの般若心経は題名代わりになっています。
在家の特徴なのです。私達と同じような世界、同じような立場に立って豊かな世界に行こうというタイトルです。
そうなると、無苦集滅道という言葉が出て来る訳です。
考えることから会得する事について
八正道が大切です。これは基本的な所です。
それで、最後の八正道の所でもう一度申し上げておきますと、何故八正道がすごいかというと、人間の無始よりこのかたある
これが八正道なのです。
つまり、良いものの協力者に仕立ててしまったところです。ですから、大変素直に八正道というものはこの人間の宇宙、始まって以来これまでにセットされているのです。
貪瞋癡というもの、
ですからきちんと捉えながら、しっかりとと出来上がっているのです。
大変分かりやすくて、これを実践した方は確実に豊かな生活を出来るようになるのです。
さあ、それではどんなふうにしていけるのか。
八正道は、心静かに会得した方がよいのです。
つぎつぎに増えていくものではないのです。
1つ1つです。丁寧にご理解して頂ければよいのです。
ご存じのように
智慧の実践ですから智慧というのはまず大切なのは考えることから会得する事です。
つまり智慧とはどんなものかを理解します。
そしたらそれを心の中で反芻して考えます。
反芻して考えたらそれを実践するのです。
この八正道は、この、わずか8つの言葉です。
これが私共の豊かな人生を決めるのですから、忙しいです。
実践しましょうと言っています。
それがこれだけの私共の現実を豊かにしてしまうのですから さあ どれぐらい どうゆう内容になるかというと、これは正見つまり正しく見るとあります。
正見というのは何か、正しい見方をしなさいということです。
正しい見方というのは何か縁の法則を理解することに限ります。
縁の法則を理解することです。
それが正しい見方です。
一粒のもみも稲穂になるためには土の中にもみを入れて水とか太陽とか人の手を借りないとたわわな稲穂になりません。
これは原因です。原因は縁によって結果になる因縁かという形です。
そういう形で物事が成り立っているつまり原因は即結果ではないんだということを良く覚えておいて下さい。
原因を、結果の間に縁が有るのだということです。
そして原因というものが、結果の果というものになる原因が果になるというこの仕組みは、まん中に縁が有るということです。
縁というものがある。因、原因というものは縁が有るということのよって結果になるという、この考え方を知ることを正見というのです正しく見るのです。
ですから何事も結果を見たとき、結果に固執しないということです。
結果には固執しない。まず結果になる原因を知ると共に、その原因がどういう係わり合いをしたかという、縁というものを良く理解することが大切です。
それをしないで結果だけで固執してしまうと・・・これが人間一番良くないのです。
結果は大切ではないのです。
結果というのは次の一歩でいかようにも変わるのです。
縁を信じることについて
人間殺したら生き返ることはありません。
それはもう変わりません、結果が事実としてあるのです。
逃れられません。
本当に大切なのはその次の一歩です。
次の一歩でその人間を判らない様に土の中に埋めて、知らない顔をしますか。
私は殺してしまいましたって警察へ自首するようになって、次で人間は幸せになるのかを選ぶだけなのです。
本当にそれだけなのです。だから結果というものが固定的ではない、これをどう変えるかによって次がある、ということなのです。
殺人のたとえは言い過ぎかもしれませんが、似たようなこと、次の一歩を選ぶことは私達の周囲に毎日ごろごろころがっています。
常に次の一歩なのです。
ですから、縁というものでこの世は出来ているのだということなのです。
それをまず理解することをしるしているのです。
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」
ここに
他の宗教は、信じなさい、神を信じなさいそれで救われますよ、となりますが、日本人は神を信じるのは猜疑心があると思います。
たぶん「神なんて本当にいるのか」これは私たち日本人の共通した考えです。
日本国民の大体8割方そう思っています。
「神なんてそんなものいやしない」以外とそう考えている人が多いのです。
ヒンズー教から出てきているのが仏教なのに、仏教というのは神を卑下して示しています。
それが日本に来て・・・ですからこの考え方は信じるっているということを、私共は神を信じる。
我々の信じるというのは、永久的に信じることなのです。
これが大事です。
それから縁の法則を信じるっていうことは、イコール縁の法則は=(イコール)空ということを信じるという事につながります。
ですから案外、神を信じるからいけないとか、神を信じなきゃとか目くじら立てることないのです。
神を信じることは、空を信じるってことなのです、簡単に言えば、縁を信じることなのです。
どの人も、あれは空を信じてるんだなと思えばいいのです。
空を信じている。
そうかでもあの人達はそのへんの本質を分かっていないのです。
ただ神がいます。
生きている事でこれを解決してるのだということなのです。
それももしかしたら正しいかもしれないのです。
私達は、神を信じないで空を信じてるのですからこれはなかなかきついです。
空というのは実体がありません、実体の無いものを信じているのですから。
それで行くんですから神という名の見えてるものを信じてるのとは違います。
我々は、空を信じている事がいつも正見なのです。
これを信じていれば何にも怖いものはないのです。
苦しみなどは全部消えてしまいます。
空が分かると今度は何が出来るかっていうと、こだわらなくなります。
正しい見方というのはこだわらない見方なのです。
ただこだわるなと言われても人間はこだわります、それでなくても
だから貪瞋癡を仲間にするには「分かったよ、貪瞋癡よ、お前の言うことは間違いないよね、こだわってると良くないから自分の心に入れてあげよう」と貪瞋癡を発見し少しずつ仲間に引き込むのです。
悪見について
貪瞋癡大明神というのを作って、ありがたく拝みたくもなくなります。
しかし、それはおかしいです。
ですから、縁の法則を信じ空を信じればいいのです。
これはひとつ、空を信じるということ、常に自分の位置を確認しておくことなのです。
常に自分はどんな状態かを考えることが大切です。
いつでも自分のところに復元力を持っていなければいけません。
自分に復元力を持っているということは空が分かっていないと出来ません。
過労死になりますから。
両方を使うのです。
自分が精神的にも肉体的にも圧迫されたらおしまいです。
人間は、一番大切な精神上豊かにならなければいけないのです。
精神的に豊かになるには空を知らないといけません。
特に、バブルがはじけて、不況だ不況だって言ってますが、それほど楽しいことはないです。不況でおかしくなったって・・・これが正常なのです。
おかしくなくてむしろ正常ですから。
こんな肩の荷がどんどん上がっていくなどとは、このようなことは通常有り得ないのです。
これでもう一番良い時代が来たと思います。
これからは八正道をやる人が勝ちます。
その第一に空って分かるのです。
そして悪見に注意してと書いてあります。
悪見とは悪い見方です。
仏教では、不正見もしくは我見ともいいます。
煩悩のひとつで、願い事を強く思い定めて、誠の道理を知らない心のことを言います。
その悪い見方というのがこの見方です。
私が正しいという立場で見るのが悪見です。
悪い見方、つまり空を信じない縁の法則を信じないのが悪見です。
今、悪見が横行しております。
言うのは勝手です、この時代色んな事で人間がすごく不安定な状態に置かれますから。
ですからすがりたいのです。
すがりたいでしょう、分かりたいでしょう。
どのようにすれば良いか知りたいでしょう。
そして、考えるのです。ですから死んだらどうなるという事でやはりみんな、考えるのです。
死んだらどうなるということは、死んでもいない事は分からないのです。
分かる人いますか?
死んだことある人いますか?
いません。
分かりません。
でも、死んだらこうなるって事を明確に言ってもらわないと・・・言ってもらうと安心するのです。
そこから又迷いが出てくるのですけれど。
そういう物事固定的に捉えることは物事を狭く見ることです。
ですから物事を暗く考えることを止めましょう。
暗く考えたらダメです。
どんな時もこれは、物事を暗く考えたらだめです。
つまり悲観的に物を絶対に見ないことです。
そしてどういう見方をするかというと明るく見る事です。
明るく見るという事は、プラス指向で物を見る事です。
暗く見ればこれはマイナスです。
この世は黒で出来ております。
明るく捉えた方が勝ちです。
暗く捉えると絶対にそっちの方に行ってしまいます。
ですから明るく捉えて行く、ニコニコした方がしかめっ面よりはよっぽど良いのです。
ニコニコしてれば、笑うかどには福来るっていう言葉が有ります。
本当にその通りです。
ニコニコした方が良いでしょう、世の中はそのように出来ています。
だからこだわらないことで、どんなことがあってもニコニコしてる人のとこには必ずサブタイトルが出現してきます。
富について
今度は、どんなことがあってもニコニコしてる人のサブタイトルが問題です。
富を得たものといいます。
富というものを会得した時に、それを目的と思っている方も居られると思います。
それは嘘です。
富というものは、ある行動をした時に一緒についてくる進行形みたいなものです。
だから富を持ったら幸せなどと思ってる方がいたら大間違いです。
富というのは、つながっている進行形です。
ですから黒の心を持っている人しか、富と金は持てません。
富というのは黒です。
ですから、富というのは常に動いています。
そして、黒の心の有る所でしか富がとどまっていられないのです。
つまり富が欲しいと思っている。
そういう人の所には本当の富はとどまっていません。
仮に一時的にとどまっていても、もっと黒の心のところに移ってゆくのです。
富が=(イコール)空であるという考え方をしてみてください。
- 富は=空である
- 利益は=空である
- 人は=空である
- 物は=空である
- 金は=空である
- 両方=空である
利益というもの、特に経営上利益が欲しい方は空の心になっていただかないと本当の利益は出ません。
ですから常に関わりを続けないと富は来ません。
利益もそうなります、だからよく、経営をしたことがない人、また、いつもピリピリしてる人、一括で動いているからもうそしたらこれは完全に黒なのです。
絶対に有り得ないです。プラスの財産なんかより必ず最後にはマイナスの財産になるようになっております。
富が多ければ多いほど空が多くならないとその通りには続いていきません。
ですから空で会得したというものですから空でいないと、いつまでもずれていきます。
利益という物はそういう性格があります。
しかもこれは具体的に言うと日本の税法もそうです。
日本の税法も、儲かったら必ず半分納めざるえません。
ですからバブルで儲けたお金を貯めておけば良かったのです。
たまに税金で泣きごと言っている方がいます。
でもそれは、ダメなのです。儲かったら、儲かった時に精算しなければいけません。
ですから、儲からなかったら儲からなかった時のことを教えなければいけないのです。
でも、人間は儲かったときのことしか、うまくいったときのことしか考えないのです。
ダメになったときのことも同時に考える。常にそうやって今を精算して行く以外に現実を受け入れる方法しかありません。
だから、空を信じるという事は何か、というと物事は全て現在進行形である。
空を信じる事は進行形です。
常に何かをしつつあるとこういう捉え方で私たちは、心構えを捉えていないと、どっかで止めたくなるのです。
これが、また年と絡んで50歳も過ぎるとどうなるのでしょうか。
どうも、苦しい。
それだけです。
ここまで頑張ったんだからいいじゃないかって思うのですけど、ダメです。
あなたがここまでやったからというのは、そういうどうのこうのは関係ありません。
空は、常に今ということですから空というのは進行形であり、進行形であるということは、もう一つの見方をするとイコール、今しかないということです。
そしてイコール、ここしかないということです。
進行形というのは来るものもない、行ってしまうまでもなくここを捉えようと思うことでしょう。
これはなにかというと、空とは今なのです。
ずっと続くのです、だから死だってそんなに怖いものではないのです。
今ここをずっといけるだけですから。
死の方に向かって私達は行ってると思っています。
しかし、むこうから来てくれているんです。
そう捉えたらそう難しいことはありません。
つまり空というのは、大変分かりやすいこの世の真理なのです。
これが本質なのです。
信じるものは壊れた時に死んでしまうのです。
人間も同じです。
もう気持ちが萎えてしまいます。
年を取らなくても信じるものがなくなると萎えてしまいます。
だから、変なもの信じてはいけません。
大丈夫、私、変な宗教信じてないなんて言っていますが色々あります。
お金を信じたり、友達信じたり、亭主信じたり、商売の人信じたり、一番危ないですから、このようなことをしてはいけません。
それは大変です、しかしそういうのは、有でしょう。
有を信じるから壊れてしまうのです。
だからその根底になる空を信じ合うのです。
そうしたら有なんて多少途中で縁がなくたっていつまでも重視していられます。
そういう意味があるのです。
ですから縁を信じると、金を信じたり、人を信じたり、物を信じているからその方がすぐ崩れるでしょう、そこが崩れると同時に皆様方も崩れてしまいます。
あなたが崩れてしまうのです。
周囲の人を、だから空を信じていればもう、空などは最初からもう崩れています。
だから、最初から八正道を信じるのです。
これ程心強い事はないです、あれが空だから心配ないと笑っていればよいのです。
こだわらない。それが豊かに人生を過せる基本です。
これが実践第一、八正道です。
2番目は、正思惟といいます。
これは正しい考え方というのが正思です。
大変分かり易い正思惟といっても、その正しい考え方、正しい意思というのは何かと言うと、
- 「色」これはいろですね、色って書きます。
- 「受」これは受ける、じゅです。受っていう字です。
- 「想」そうは想像、そうと書いて心です。
- 「行」ぎょうは実践する行のことです。
- 「識」しきは認識の識。
色っていうのは肉体、受、想、行、識は精神活動、ですから人間は肉体と精神のことなのです。
それが五陰ですから、この肉体も精神も我が無いということを五陰無我と言うのです。
我が無いっていうことはこれはこだわることが出来ないこれは空ということなのです。
ですから肉体も精神も空なのですということですから自己がわからない状態でバランス感覚がとれることなのです。
これが五陰無我です。
五陰無我というのは、つまり、心が悟りの境地にあるのを五陰無我といいます。
心が平静なのです、こころが動じないことです。
それが五陰なのです。ですから五陰無我というのは大変に良い状態なのです。
つまり心がシーソーなってるのです。
今、この人の心がね、この人がシーソーのことなんです。
シーソーの上にはギッタンバッタンのシーソーの上には、五陰の自己が無我という一番素直な状態です。
この状態が保たれていれば人間は安心です。
慈悲について
これでバランスが良いのですけれど、今度は、自己というものがあるのです。これが我になってしまうのです。
こうなるとここでバランスの差が出来ます。
こっちが上がってしまいますから、ここが苦しみなのです。
あっ、間違えたとなると、これでバランスが崩れます。
これが間違って、でこれが正しい。でも、無が取れてしまって我になってしまうとその原因がなにかと言うと、この我というものはこの内のことです。
この貪瞋癡(とんじんち)の心のことで、それで心の中から自分の都合、我というのは自分の都合を考えます。無我というのは相手の都合を考えるのです。
そうすると、これでよいとなりますから、その差が出来てしまうのです。
これが今いう正しい考え方で、そしてさっきから述べております様に人間は最初に我がない状態ではないのです。
最初に芽の状態なのです。
我というのは大変です、自分がかわいいから自分を大切にしたいために有る訳です。
それで動いていくと良いのですけれども、そこから、さまざまなものを生み出したりしてしまいます。
八正道はちなみに25歳まではしなくてもよいのです。
少しヤンチャをしても大丈夫なのです。
そのうちだんだんだん心の中に色んなカビがずたずたずたと刺さってきて、動きがとれなくなった時に初めて正思惟、正しい考え方が分かるからです。
ですから25歳までで八正道をやっても理解できません。
あのようなことをしない方が良かったのだ。
悪かったとことに気がつくことです。
とにかくあんまり最初から、生まれてからすぐ、正しい見方をしないでしょう。
最初はもうやることだけやって悪いことやってはじめてそうかと思うのです。
そうすると、今度は何が出てくるかというとそれにはこういう不可能な所で動いていくというのはさまざまなことが起ってくるのです。
そこで、要するに戦いが起るわけです。
どのように戦うかと言えば、
四無量心と
つまり、貪瞋癡の心は正しい見方じゃないです。自分の煩悩です。
ですから、自分の都合で考えるのが貪・瞋・痴です。
これでやるとどうしても世の中、どうも自分とのギャップがあって自分に不利になってしまいます。
結果的に、どうすればいいのということになります。
その時、相手の身になって考えればよいのです。ただ相手の身になって考えるのがいいのです。
相手の身で考えるとはどういう事かというと、ここで有名な、
慈悲の心というのは、慈悲喜捨の慈悲を言っています。
喜捨を省いているのです。これは実は相手の身になる考え方なのです。
四つの無量心というのはこういう、計り知れない心の事です。
8000m、10000mの海の底よりももっと深いのです。
慈というのは相手の幸福を願うことを慈とすると言うのです。
これは、楽を与えようという、行動を起こす事なのです。
慈と言うのは相手に楽になるような行動をします。
会ったとたんに暗くなるようなのはいけないのです。
会うと、あの人に会うとすがすがしいとなって、相手の苦しみを与えず、楽しみを与えてあげられる様な心の捉え方、これが慈なのです。
悲というのは苦をぬくことです。
相手が苦しんでいたらその苦しみを和らげてやる心を持つこと、これが悲です。
ですから苦をぬいて、とげをぬいてそこに、修行による薬を塗るようなものなのです。
それが心の捉え方だと思えば、そんなに難しくないでしょう。
そういう心を起こすこともできるのです。でも、その心には常に
これは忘れないで下さい、何故このようなことするかということです。
何故こんな慈悲なんてするのか・・・。それは、こっちをわすれちゃダメ、こっちを忘れてこれだけ考えるからすごく通じるものなのです。
ところが人間は、まったなしで心の中には貪瞋癡が有る、ですから慈悲をするということなのです。
慈悲が嫌いですから。逆に言えば、慈悲のことさえしていれば相手のことを考えての苦しみをぬいて楽を与えることを常に考えている人には心が平穏なのです。
自分の苦の原因を離したければ慈悲をすること、相手の身になって考えてあげることが自分の心の平安を保つことなのです。
慈悲そしてこちらで相手が喜ぶ、相手の幸福を見て満足することを悲というのです。
自分で喜んではいけません、これは相手が喜ぶのを見て楽しむのです。
この喜びは相手が喜ぶ姿を見て、自分が楽しくて喜ぶのではないのです。
この喜というのは、あなたの好意によって相手が苦しみから解放されて幸せの境地になったのを見て、良かった、おめでとうと祝福してあげることなのです。
その次の問題。
慈悲のない人に慈悲喜捨の話をしてもしかたがないですけれど、こうしてご自身本当に有り難く思っておりますが、この慈悲ならいいのです。
普通の人は、引きつりながら喜びます。人間というのはおろかしいことに、相手が喜ぶ姿を見て一番腹が立つのです。
相手がこういう時一番嬉しいですから、皆さんがやった行為を忘れてしまうのです。
あえて一生懸命やった事を忘れてしまうという事なのです。複雑です。
そこで出てくるのが捨の心です。
悪い事を考える心について
慈の心、悲の心、喜の心、捨の心。この四つはこれが正しい考えなのです。
正しい心持ちなのです。
これは単なるいいことばっかり言ってるのではないのです。
ですから慈悲喜捨をしている間は、
ここが大切です。
どちらかが、一緒には動けないようになるのです。
慈をやりながら苦を考えたり、そのようなものをおそらくやらない、これをやってる間はもうすこし待てるのです。
悲をやってる間はもうすこし我慢する。
喜をやってる間もすこし我慢する。
捨をやってる間もすこし我慢する。
このようになっている訳です。
ただ、逆に言えばだからどちらを取るか、選択するかなのです。
何故かというとブッタの言葉の中に、良い事を持続しようとすること、良い事を早くしようとすることをしないと、心は悪い事を考える。
旨いことを言います。つまり、私達というのは暇だと、
暇だと貪瞋癡が起きるのです。
だからそわそわしてくるのです。
ところがもう、良い事で忙しくしておけば
そのような仕組みなのです。
いま、述べたように貪瞋癡を仲間に引き込まない。
貪瞋癡を仲間に引き込む理由がない。
貪瞋癡とは違う考え方、心の動きで動かななければいけない。
だから慈悲喜捨は、私達にとってどういう行為になるかというと出発点なのです。
なんの出発点になるのかというと利他の行です。
人の利益になる行為というのは心の中でまず考える。
それで、利他行のまず出発の行為が心の中で相手の身になって考えて上げるということです。
これからの時代は、心をどれだけデザインするかが、言葉とか体のその人の美学とつながっていくのではないかと思いますし、それが人間の外見形成まで及ぼすことになるのではないかと思います。内面が外見に表れる。自分のデザイナー。プロデューサーの類です。
スタイリストという職業があります。
ここでは心のスタイリストでこの人は皆スタイリストなのです。
そして様々なものを連れてきます。
社長や偉い人にはスタイリストがやってる。
心の中のスタイリスト。
心の中のスタイルを良くする為にはまず心が慈悲喜捨の心にしていきます。それと同時に心が豊かになるともう、顔、骨格が変わってきます。皆さま方も絶対言われてるはずです。このような仏教法話に、仏様の話に毎日触れているのですから。
毎月顔色が良くなっていく。
不思議でしょうがない。
もう皆さんは言われませんか。
まず身近な周囲が変わります。
奥さんが変わります。
旦那さんが変わります。
子供が変わります。
隣が変わります。
近所が変わります。
仏様の智慧に触れ、その一瞬だけでもそうしよう、そのようにしようと近づいていくのです。それが家に帰っても、続いています。だから必ずいい顔してますから、近い人は分かります。あなたの影響を受けるのです。みんながよくなります。
ただ帰りに、夜の繁華街へ行っていろいろなことをしたりしてはいけません。
それは、まず心の中の正しい考え方とは自己イコール無我って書いてあります。
自己は無我であると我が無い、我が無いってことはどういうことかというと、心をやることなんです。相手の身になって考えることをしていく間は我がないから常に保たれています。
そして、「貪」「瞋」「癡」の心が自己を作ってしまうのです。
自己を醜く作ってしまいます。心のバランスの乱れ、それが心が乱れるということは何かといいますと、自分のこと、自分の利益を考えてそれが達成出来ない時に腹が立つのです。
ですから自分のことを考えて動くから腹が立つのです。自分の事は考えない。
では滅私奉公しなければいけないのですかといえば、そのような事は一切言っていません。
この世は空だから、相手のことを考えてやってあげた方が勝ちなのです。
自分の心について
攻撃せよの方が具体的で分かりやすいですけれども、これはこういう表現もしておいて下さい。
四無量心で貪瞋癡を活用するとあるのです。
こうした方がよいです。
四無量心を実践します。
そのエネルギー源に貪瞋癡を使ってしまいましょう、それで相手が喜ぶ姿を見て喜ぶより、貪瞋癡を飼い慣らしてしまおうというわけなのです。
自分が喜んだことを見て貪瞋癡が喜ぶうちは、まだ至らないことです。
それは訓練がいります。だから
それはどちらかというと小乗仏教的な考え方なのです。
つまり、貪瞋癡を敵と思って、それを戦って潰すには四無量心なのだ、それは分かります。
けれど本来は貪瞋癡自分の心であり、自分自身な訳です。
自分自身が敵なのです。
ですから、これを四無量心をエネルギーにしてしまいましょう。
四無量心を実践するエネルギーにするのです。四無量心のエネルギー源にと・・・。四無量心を貪瞋癡・・・ここだけ聞いたら、なにを述べているのか分かりません。
幸せになるには、専門用語が難しいのです。
まず、貪瞋癡を知らないと。
こういう形で貪瞋癡と四無量心ということの仕組みを、しかもエネルギー源を貪瞋癡として四無量心を実践する。
こういう考えを持てた時、心は大変すばらしい動きをしだすのです。
今度は、心の中で相手の身になって考えるということです。
四無量心が出来ると今度は、それが口をついてこれが出てきます。
3番目の正語は、荒々しい言葉を言うなということです。
言われた人はそのまま言い返します。やさしいことばで言われたら、相手は荒々しい言葉で言う人はいません。
しかし、荒々しい言葉で言われたら相手も荒々しい言葉で返します。
嘘を離れる。
無駄な話を離れる。
仲違いさせる話を離れる。
悪口や粗暴な言葉を離れることなのです。
つまり、正しい言葉ということになります。
ですからたいがい八正道というのは素直に、まずこの世の中の真理というものを信じなさい。
こういうものは、絶たなければだめです。
それには空というこの世の真理をまず信じなさい。
そうしたら心の中を正しい考え方をもちましょう。心を正しく持つから言葉がでてきます。
ここに4つの難しい言葉があります。
妄語 、嘘をつくことを妄語と言います。綺語 無駄な噂話をしないとか、陰口のことを綺語と言います。悪口 乱暴な言葉を使ったり、怒ることを言います。両舌 、二枚舌を使うとか、あっちの人にはいいこと言う、こっちの人にもいいこと言うとかそういうことを言います。
言葉というのは、これが大変なのです。
どうしてかといいますと、言葉の持っている威力というのは大きいのです。
特に、ご自分の言葉には気を付けください。言葉一つ、感情一つでいままでの積み重ねてきたもの、培ってきたものが一切だめになります。
この頃は、失言というか、言質で何人ものひとが、辞められたり、追い込まれたりしています。
例えば「こんなこと甘えたこと言ってられないのだ。うちの会社は、うちの社員は甘やかすとすぐに付け上がって、もう、毎日怒ってやる。」とか「いないとすぐサボるし、仕事はしないし、携帯ばかりいじってる」と言って、もう本当に怒りっぽく、いつも怒っている人がいるのです。ちょっと手を抜くとどういうことにかなるっていつも怒ってるのです。
そういう人は、気持ちは分かります。
怒る理由もよく分かります。きっと、甘い事ばかり言ってたら、いつ会社が潰れるか分からないとこのように思います。
しかし、この様なこの時にもこの世は空であるという事を忘れない事なのです。
嘘や陰口について
この世は空で出来ているという事は、天に唾をはくようなものです。崩れない岩に向かって石を投げているようなものです。必ずこっちに戻ってきます。
ですから、嘘をつき、陰口を言う、怒って二枚舌を言う、これを相手に向かって、一生懸命やってるつもりなのです。
ところが、相手に向かってやってるわけですけど、いつなんどき何があるか分からないのだから、たたいてやろうと思ってやっているのです。
ところがこれが相手じゃないのです。
自分に効くのです。
自分に向かってやってる。返って来る。
ですから、自分に返ってくると思えばいいのです。
嘘をついたら、自分に返ってくると思えばいいのです。
陰口を言ったら陰口言われる。
怒ったら逆に相手は励まされる。
二枚舌を使ったら使われると思う程、だからこっちが出てきた分、こっちが言ったから出てくるのではないのか。
そのように、向こうから返ってくる訳です。
嘘をついたからこちらも嘘をついてやろう、そうではないのです。
嘘をつく人がいたら、真実を語る事によって、嘘をついている人とかその心と、立ち向かうのです。
ですから皆さん方、やっぱり本当の事しか言わないのです。
それによって少し位、遠まわしになることによっても。
これは法句経にあります。
つまり、これは巧みな陰謀、要するにおべんちゃらとか、こういうものには、つまり心が少ないということなのです。
ですから絶対に相手になんと思われようと、それ以上の事を考えればいいのですから、もうすぐそういう形で直接に出すと必ずこの世が空ですからと思うのです。
そうなると、言葉で言う単語。大変簡単に出来るのですから、すぐ言葉に出てきて心の中のものも全部出てしまいますから、これによって、大変苦しい思いをする方がいっぱいいます。
ですから正語が大切なのです。
言葉がいらだちを落ちつけ、言葉について謹んで、言葉による悪い行いを捨てて、言葉によって善行を行いなさい。
もうすっと出てきてしまいます。だから、大変分かりやすく言葉は出てきます。
つまり心の中で思った事がこれが自然に出てくるのです。
こうなってるのですから、言葉によってその人の心が分かっってしまいます。
もう言葉で自爆する方は心の中が
それから相手の身になって、自分が言ったらどうなるかという事を考えないといけません。
空を良く理解して、自分の発言をしないといけないという事です。
ですから要するに嘘はつくなという事です。
これは八正道でおこない、豊かにする四無量心の様な事があるらしい、それはこの前に不を付ける以外ないのです。
これは、不を付ける事。不妄語、不綺語、不悪口、不兩舌で不を付ける。これは行わないことです。
逆の事を考えてみましょう。
嘘をつかない真実を語ること。
陰口は言わないこと。
愛語を使うこと、悪口にない愛です。
これは、やさしい言葉で話し合う。悪口じゃなくて愛語でいきましょう。
愛する言葉と書いてこれは、やさしく相手の身になって話してあげる。
悪口ではなく兩舌、二枚舌、舌は一枚しかないのですから、こういう形で言葉を発しましょうということなのです。
そのようになるとよいと思います。
言葉のよる悪い行いを止めて、言葉によって善行をする。
これは一生の授業だと思います。
一生の授業
不思議ですけどね、今日は上手く行ったと思うと明日も上手く行くとは限りません。
ダメなのです。今日なんか分かったつもりになりますけれど、明日になるとまた分からなくなる。これが人間なのです。
常に修行していないと、常に人間良くなると思ったら大間違いなのです。
年を取ればとるほど人間というのは、経験を積んで増やしてくる。
逆に、年を取ると、若い時の方が、勢いがあるのだけれど、不安がない。
年を取ると逆にそういう時、もう、物がね、年を取ると分かるのです。
同じ事でも若い時は分からないです、だからといって、より年を取れば何でも分かるなどというものではないのです。
人間が大好きな3つの行為
特にこのブッタの智慧というのは、常に繰り返して、常に理解していないと。若い時はすぐ理解できたけれど、年取ったらだめだなんてことあり得ますから。
今度は言葉がそういう風に整えられましたら、次にある正しい行為となります。
正しい行為というのは、正しい身体的行為という感じです。
行為というのは3つあるのだということなのです。
心での行為。
言葉での行為。
そしてここに言う、正業。
正業というのは最も鮮明に分かるのは、正しい身体的な行為の事を正業と言います。
その人の行為で、これを「業」インドではカルマといいます。
そこで正業である正しい行為をおこないましょう。
殺生、偸盗、邪婬、この3つの身体的な行為を人間は大好きなんです。
殺生
私達は、殺生嫌いかっていうとそうではないのです。
殺生は人を傷つけることです、わたしはそんな事したことございませんという人は多いと思います。
しかし、そういった人でも、今日、昼飯だったら何匹、鳥殺して、魚殺して、豚殺して、牛殺しておいて、殺生をしたことがありませんと言えますか?
自分で殺生していないと思っていても、殺生しているのです。
しょうがないと思うのですが、人間は殺生しているのです。
偸盗
偸盗とは物を盗むことです。
これも、人間は盗むのが好きなようです。
これは人間は動物ですから。動物はもう、自分が生きていく上では、毎日盗んでいるんのです。すずめにしろ、ハトにしろ、カラスにしたって、みんな盗んでいる訳です。
庭にお米をこぼしてしまってすずめが来たら、庭にこぼした米なんか、終わった後、落ちていないものです。皆んな堂々と食べてるでしょう。
あれはきちんと、自然の法則に守られて、自分の糧を得る為に、盗むというか、適切ではないかもしれませんけれど、それをしている訳です。
人間は自然の法則を度外視してまで、その動物の持ってた、
だから、スーパーや書店など直接物を販売している方は、よく理解していただけると思うのですが、私なんかは、もう万引きはないと思っていました。
もうこれだけ豊かになったから、生きるために本当に必要で万引きはないと思っていました。
万引きをするのは、本当に、貧しくて、何にも食べる物、お金も無いからだと思っていました。
しかし、いまはちょっと違うようです。
お金はいっぱい有るんだけど盗みは楽しい、こういう訳なのです。
お財布にお金あるのに盗みは楽しい、こういう訳で少しおかしくなっています。
これはいけません。
邪婬
それから3番目にでてきました。
これはもう男女関係なく好きなことです。
でも、これら社会人に制約して、止めろなんてそういう、さもしい考え方をしているようでは駄目なのです。社会的にこの3つの事は出来ません、しませんというのは私達は社会的に出来ないこと、してはまずいことと理解しています。
分かっていますけど、世間体がなくなると基本的には、殺生、偸盗、邪婬というのは野放しなのです。
その時、これはどうしたら解決するかと、止めろっていう訳にはいきません。
だから、
まず、どういう事をするかと言うと、布施をすることです。
相手に贈り物をする。
つまり相手が喜ぶことをしてあげる。
そして愛をあげる。
悪じゃなくて愛をです。
親切に話しかける、つまり相手の心が潤うような言葉をかけてあげる。
言葉の行為というのもこれは具体的な実践行為です、だから言葉をかけてあげる。
相手の立場になるような相手の利益になるような、相手の心がなごむような言葉をかけてあげる。
つまり、利他行の事なのです。
利他行とは相手の利益になる実践をすることです。
そして、そのよい行為はそういう相手の身になった、相手の身に置き換えた実践行為ですから、すごくこれが具体的に相手に影響をあたえます。
そういう時にも、つまり同時という考え方、相手の身になって、相手の立場まで同格になることです。
上から物を見下して投げ与えてやるのではなく、相手と同格になって援助するのです。
同じ目線の行為はなかなか、出来ることではありません。
こういう事をしてあげると、愛情が湧きます。
人生において常に実行してみてください。もちろんプライベートな事でも使えます。
後は、会社でも学校でも大丈夫です。
特にライバルとかには効果があります。
あとは、得意先とか。やっかいだと思い込んでいる相手とかにも。
そういうことにもこの4つのことは大切です。
相手がでたらめな事やってきたから、それに対して、こちらも、相手が殺生、偸盗、邪婬で出来たから相手だから、私もそれでいこうじゃないかといってもだめです。
大体、相手はこの時、仕事上の場合は、三悪業で来る場合が多いのですから。
こちらだって、それに対しては、
そうする事によって長続きするのです。
相手が殺生、偸盗、邪婬で来たから、こちらもそれ以上の殺生、偸盗、邪婬で行こうなんていっていたら、もうこれは暴力団の世界と同じです。
ですから、行動は社会の及ぼす影響が大です。人間の行動は物凄く影響があります。
これからは、四摂法をパートナーにしましょう。
三悪業は、あなたの無始よりのパートナーです。
これは、三悪業はあなたにずっと付いてまわっているものなのであることをいっているのです。
ですから、こちらの事を言って、まず自分を正しく整えて、ついて他人を教えよ、そうすれば、賢明な人は惑わされて悩む事は無い。
つまり、まず自分を正しく整えることが大切です。
自分を正しく整えていないと、惑わされてしまいます。
ですから行動を正しく整えていれば良いということなのです。
それから他人に教えなさい。このことの基本的には殺生、偸盗、邪婬があるのだということを分かっていただきたいのです。
ところが、経営をしていればしているほど常に殺生、偸盗、邪婬の行為によって悩まされます。
そこをひとつ是非注意して下さい。
実践について
なにしろ
八正道というのは、八つもありますけれども、ちょうど4つめが終わった所です。
大変分かりやすく出来ているという事を、ご理解出来るのが、第5実践の正命なのです。
正しい生活、正しい生活というのはどういうことかといいますと、朝起きてから夜寝るまで、この一連の行為なのです。
ですから難しくはありません。当たり前の事なのです。朝起きてから、寝るまでで、また、朝になる、この正しい生活をくりかえすことなのです。
今までのところをまとめてみましょう。
そうでないと、八正道を、ただ頭の中で考えて、八正道、知っていると言いながら、自分が、自分のまわりが苦しんでいきます。
八正道について、こうやって説いているのは家の中、ご自分の周りの環境で実践することです。
よく知識だけの人がいます、これはだめです。
つまり八正道でいきたいけれど、次から次へとやってることが貪瞋癡(とんじんち)で、もう周りは火の車です。
だから、実践できない人はだめなのです。
正見
正見がベースなのです。
正見というものの見方によって、これで要するに家を建てる時の土台になる訳なのです。そして正思惟、正語、正業。これが人間の基本的な行為なのです。
人間はこの3つでこの世と関わっています。正思惟、正語、正業、この3つなのです。
ここの所で正思惟の訳の事を、
ですから、貪瞋癡に不を付ける。
心の中で3つのやってはいけない事を、口では4つやってはいけない事を、行動では3つのやってはいけない事を、これ全部たすと10コになります。これを十善戒と言います。
10の良い行いをする。10の良い行いというのは、これは、その人がこの世の中とインプットする全てある事なのです。つまり人間はこの十の行動でこの世にインプットしてきます。だからコンピューターがあっても仕方がないのです。
周りに、コンピュータおたくがいても、コンピューターはすぐに日常茶飯事に使います。コンピューターと全く同じ格好をしています。この世の中は本当に上手く出来てます。このコンピューターの仕組みを知っていた人と言うのか、実はこの宇宙にコンピューターがあるのです。
Aというものをインプットすると、ブラックボックスでここに宇宙なのです。
Aを入れるとBが出る。Aを入れてBが出てくることはあまり関係ないのです。
ブラックボックスという所に、これはコンピューターなのです。
私達も知らない。どういう仕組みか、だだワープロなどよりは新しく押すと出てきます。年寄りでこの仕組みが分からないと出てこないのではないのです。「私は」と入れて、カタカナでも何でも、出てくきます。分からないのが出てきます。これを因縁と言うのでしょう。全く今のコンピューターと同じで、データを入力して縁をからましてOUTして、INとOUT、まさにコンピューターとブッタの言っている事は全く同じ、だから21世紀に向かって、これからますますブッタのいうことが大きくなります。大きく勝ちが出てきます。
ところが、残念ながらこういうものも、私達は、キリスト教圏におりません。
キリスト教圏の人はキリスト教やキリスト教の生活習慣、キリスト教の思考というものが入ってるのでしょう。もちろん私達も、知らず知らずに仏教徒でない人でも季節行事や根本と成る考え方の思考など、影響をうけているものなのです。
だからきっと「ブッタ、あんな道具では駄目だよね」と思ってもしょうがありません。
「キリストという神を、絶対の神がいるのは信じなえればいけない」そう思っている人にブッタの智慧をいくら解いたとしても低くなるでしょう。私達は、もちろんそんなことは思わないですけれど、向こうはそうではありません。逆に言えば、我々だって、このこういう事を言えば向こうから反論されることでしょう。
ただ世に中はこういう仕組みで行われるという現実はこうなっているんだ、という事となってくると、大変理論的だということなのです。そして、ブッタの教えは、それがシステム化されてますから私共が実践することができるのです。
それでよいのです。
幸せになれればよいのです。
どちらを選ばれてもよいのです。
でも、幸せになるのはこちらの方が、ブッタの教えのほうが、ずいぶん近道だなという気がします。
不幸な環境について
十善行というのは人間は3つの部分で10の行為でこの世にインプットしているのです。
この世にインプットしているのは10の行為でインプットしています。
これだけなのです。10の行為でインプットしている事によって、結果的に楽しい結果になるか苦しい結果になるかに分かれます。
正しい生活というのはこの3つの事、プラス正しい見方を入れた4つの事。基本的に3つです。これがイコールなのです。
ですから、人間朝起きてから夜寝るまでにやる行為は、正思惟、正語、正業、これは、正思惟でやるか、正語やるか、正業やるかだと思います。これを身口意(しんくい)って言うのです。
しかも、その時に普通の正常な考え方でいくと必ず、
貪瞋癡で行って、今度はもう殺生、偸盗、邪婬で動きますから、それは朝起きてから寝るまでに1日にどれ位の害毒を外に流してるかという事になるのです。そうしていて、自分の環境は苦しいとか、自分はどうしてこんなに不幸な環境だとか言ってるのは、全部自分が、そういうものをまいているということなのです。そういう事になる訳です。
ですからここの所は大変苦しいのです。そしてその時にどのようにするかなのです。ここで私達は、これから次世代に向かってもう一つ考えなければなりません。これは私達はさまざまなことを経営しているのです。運営しているというか。つまり経営論です。これは国家というものに置き換えれば分かり易いです。
- 「空」の国家。
- 「有」の国家。
この際、よく知っておいた方がよいです。
つまり国家が空の国家と有の国家があるという事です。日本は幸いにして今、空の国家にあります。
これが1945年まではもう有の国家です。軍国主義で大変でした。これは70年で崩壊するのでしょう。でも今、日本は果たして空をこのまま持続できるかといいますと、日本が空になれたという事は、戦争で負けたから空になれたのです。
つまり会社で言えば倒産したのです。
倒産する事によって、ゼロになった。苦しい状態になって初めて空が分かるのです。空というのは1番分かる。倒産することによって、倒産した人は空が1番分かります。日本も昭和20年で倒産したおかげで空が分かる。空というのは、だんだん実力が付いてくると、だんだん空は
5S運動について
素直さが無くなる。業慢になる。業慢になり過ぎて有を70年続けた。
ソ連の方は崩壊した。
また日本も有になってます。そのように感じます。そういう国はどうせ潰れるのです。ですから国家はこれからあくまでも空の世の中、という事は競争社会がこれからも永遠に続くということは忘れないで下さい。国家なんて悪い事かもしれません。そういう考え方、空に徹する様にしないといけないと思います。
それで、正命、正しい生活です。
まだ今の日本の場合はまだ、多少、空の世の中の方です。
これは空の世の中ですから、なおさら八正道を使わないと。空だからなにをやってもいいのではないのです。逆に空だから自分を正しく制御していく事がよい訳です。
より活用する場合は5Sです。次のことがあります。
整理、整頓、清潔、清掃、しつけ。
よく5S運動があります。
5S運動っていうのは実は正命なのです。
正しい実践というのは、基本的には、整理、整頓、清潔、清掃、しつけ、5Sの正しい生活するには4つの実践が内蔵されています。正しい生活をするには、正見、正思惟、正語、正業というこの4つの実践がある事が大切です。
そして、欲しい罪を作るこの法律については、じだらくな事は止めて下さいということです。
欲しいままに罪を作る法。
これは要するに10悪行です。
これは10悪行で世の中と関わるのです。そして世の中の関わりから出てきます。
逆に良い習慣は早起きからです。
朝はやっぱり、早く起きる事がよいのです。朝早く起き事は決して悪い事ではありません。これはよい習慣だと思います。どうしてよいか。つまり、それが正命の出発になるのです。出発は朝早く起きると、夜は早く寝なければいけません。朝早く起きて、やはり夜は眠くなって寝る訳です。ですから早く起きるという事が先な訳です。
それから正命。
整理、整頓、清潔、清掃、しつけ。
これが正命、正しい生活、正しい毎日の日常経営活動というこういう事をきちんと整理する、つまり整理、整頓は、色んな事が言えます。ただ部屋中をきれいにしただけじゃ駄目、物を整理することでも駄目。常に心の中の整理整頓。つまり言われたらすぐ動ける状態にしておく。反応できる状態にしておく。素直に受け入れられる状態にしておく。それが本当の整理整頓です。
- お客様の関係も整理整頓
- 会社の関係も整理整頓
- 学校の関係も整理整頓
だから言われるとすぐ動けるのです。
言われて、すぐ動けるような体勢は難しいです。
むしろ、言われたらねすぐ突っかかる方がいます。
そういったのが良い風潮だと言われた時期もありました。
出来ない事を先に言っている訳です。上司や客に。だから今言った事は出来ない。だから一言も指示が出来ないという会社が有ります。かわいそうだと思いませんか。客も、上司も、本人も。何故、指示が出来ないかというと、言った事を常に始末していない会社というのは、言いっぱなしで結論づけて整理していないからです。いくら言っても次の整理が出来ないから、言った事が後回しなのでしょう。これではダメです。物もそうかもしれませんしかし、これが全部に出てくるのです。
だから整理、整頓、清潔、清掃、しつけ。
これは何も、外見的なものだけではなくて、名は体を表すことです。
つまり
外見からまず直すという事です。
きちっとした整理整頓されていところは、まず外から始まって今度は心の中の整理、整頓言葉の整理、整頓、行動の整理、整頓、することによって関わってきます。5Sというのは、外見だけでなく、全部これに心の5Sにしておくことです。心の5S。言葉の5S。身体の5S。といった事の方が分かりやすいです。
だから整理ということは外見の綺麗じゃないのです。
そして心の中を整理、整頓する、言葉も整理、整頓する、行動も整理、整頓するのです。
正しい努力について
正しい生活が出てくるということは、第6実践ということです。正精進とあります。これは正しい努力のことです。
正しい努力というのは
ところが、わけのわからない人間は、なにか起こってから八正道をおこなうのです。
- すでに起こったや悪いことを断じましょう
- これからおこる未来に悪いことを起こらないようにしましょう
- すでに起こった良いことをさらに大きくしましょう
- これからおこる未来に良いことをさらにおこるようにしましょう
悪い事を止める。
良い事を続ける。悪いことを出さないようとは正精進です。これを車に例えると、ガソリンです。正精進というガソリンと八正道の車です。まず、正しい見方というのを道路とします。正しい言葉を前輪とします。正しい行動を後輪とします。それで、正しい考え方で、ハンドルを握って運転する。そして、それだけではありません。これだけなら正(しょう)なのです。これをこんど走らせるにはガソリンがなければいけません。このガソリンが精進なのです。
ですから、これで走っている訳です。これがしっかりしていないとガソリンを入れても、車が逆に暴走します。
ここで大切なのは、正しい努力をしても、ある今までの5つの正しい実践がしっかりなされてないと、このエンジンのガソリンが逆に暴走してしまうという事なのです。
これは、八正道は付け焼き刃は効かないからです。
考えれば簡単なようなのですが、だからこそなおさらです。一つ一つ取っても、これは決して付け焼刃ではできないのです。
一つ一つ、こつこつ、こういう事をして行かなければいけないと思います。積み重ねの努力です。言うのは簡単ですが、続けることは困難を極めます。
正念について
第7実践をお教え致します。
同じ失敗は2度しないということ、これが正念です。
正しく念ずるとは正しく祈ることです。
他人に対しては喜ばれる事をしていく。そういう意味なのです。
そして自分というものを見つめる事をまずしてみましょう。
自分を見つめるっていう事は、身念処、受念処、心念処、法念処があるのです。
- 身念処というのは、人間の体は、これは大変汚いものという事を表しているのです。人間の体って綺麗だと思われます。特に美人を見ると。美しいと思うのです。ところが、美人も死んで墓場に入ると、しゃれこうべになってしまうのです。そこまで思わないといっても本当のことなのです。身体というのは、不浄であると。
- 受念処というのは、受というのは、苦です。つまり生けることとは苦であると、受は苦であるとこう言うのです。ですからこの世から受ける事は楽しみは無い。そういう事言ってる句です。
- 心念処、これは心というのは無我です。
- 法念処、世の中にあるものは空です。
この世の周りのものをよく見ると、これは自分に対して楽しいとか、そういうものは全部無いことは、これは今まで申し上げたこの世の一切は苦であるという事を言っているわけです。正念、正しく、つまり、この世の中は苦しみっていうのが常識なのですよという事を良く知る事が、四念処です。つまり、四念処っていうことはそういう事です。この世の中の正しい見方という、四念処というもの、これがブッタの最終弟子達の考え方なのです。
しかし、ここは気を付けなければいけないのです。
身念処、受念処、心念処、法念処というのは、つまりこの世は常に移り行くものであり、そして語らう者は苦しみであり、実はこの最後の言葉が、
移り行くものであるという事です。それが逆に常楽我浄になったのです。この世の中が空であるという事が分かり、そして空の世の中の八正道という実践活動をしている人には、常楽我浄の世界が出現するという事です。普通、私達はこの常楽我浄というこの見方はこれを望むのです。常にいい事が有って楽しく有る。そして我を中心に考えて美しいものは美しい人と当面そう思うのですけれども、その実は本質的なものは四念処という、一切は苦労します。こういう世界が本質であるということです。
それをもう一回、正しいブッタの智恵で会得して行動すると、常楽我浄の世界が、また出現します。
本来、人間が望んでいた事が現実問題として起こりました。ですから、常楽我浄の世界、それには八正道を実践すると、その未来が出てくる訳です。次に、正しい三昧というのは、これは正しい瞑想の事です。正しい集中力のことでそれを完成することです。この「正定」と「正念」によってはじめて「正見」が得られるのです。
正しい瞑想について
正しい瞑想という事は何かと言うと、正しい瞑想とは心を空にする事であるとあります。
正しい瞑想とは心を空にする事なのです。空にする事ことは、無我の気持になれと言ってるのです。つまり、こだわりのない考え方を常に持って、今というものを豊かに生きる境地なのです。
そうすると、陽気になっていきます。
陽気になっても人間ですからすぐ考えます。
まてよ、この病気はもしかして癌かも知れない。
ねッ、癌だよね、そうらしい。
先生もそうではないと言うし、女房もそんな事、言わない、心配ないすぐ治ると言っています。でも、これは危ないんのではないか、という妄想が起こってしまいます。
その時こそ空と言う考え方、こだわりのない考え方を常に持って今というものを豊かに生きる境地になる事です。それから気がめいっている時にも空をどうにか、照る日も曇る日も思うことなのです。この照ってる日というのは心がウキウキします、いい時です。でも曇っているときはどうでしょうか。心がすさんでいる時かもしれません。しかし、そういう時もどちらも空という事を常に自分の心の中に持つという事。これが八正道の正しい実践の最後にあります。
正定です。正しい心の保ち方です。
照る日も曇りの日も常に正しい心の保ち方をすることなのです。
ですから2番目に実に心が統一されたならば豊かな智慧が生じます。
心が統一されないならば豊かな智慧が滅ぶとあります。
見事にこれは、『
『ダンマパダ』(Dhammapada)とも言いますが1番分かりやすい経典なのです。法華経ではないのです、法句経という、本当のお釈迦様の、本当の言葉です。
例えばこれは釈迦の語録の形式を取ったお経ですから、お釈迦様はひとつも書いていません。言った言葉を書いたものです。分かりやすいすい言葉です。これの282番の実に心が統一されたならば豊かな智慧が生じるということなのです。
大体新しい物を開発する時はみんな新商品や新発見はみんなそうなのです。
ほおっておいたら次の日になったら成功する。
あれは本当にそうなのです。本当にこの世の中は関われば関わるほど教えてくれる仕組みになっています。その時、肩肘張っているうちは教えてくれません。厄介ですね。意地悪ですね。ほったらかしてると成功するのです。
これは御釈迦様はこうしたのです。
それを象徴するのが瞑想です。
瞑想というのは全ての他の行為をする、ということは=(イコール)八正道をするという事です。八正道がイコール中道であるとなっています。だから八正道をすると必ず人気がでます。つまり目標に当たってるのです。八正道さえしていれば絶対に滅びる事は無しに不安も無くなって豊かな世界が出現するように出来ている訳です。ブッタの智慧を現実界に活かすなんて、つまり心の時代だ心の時代だと言いながら、理念の時代だ、これからは経営理念を作らければいけません、そんなこと言って少しかじっているようでは駄目です。これからは皆様方はきちんと八正道を現実界の入れて行かれると良いのです。それでこの下で八正道を支える連体形が苦集滅道です。
統一された心について
心が統一されないならば豊かな智慧が滅びます。つまり心の統一っていうのが大切だという事を言っています。
ですから、日に1度心の静かな時を持つために、朝でも夜でも、神棚が無くても、仏壇がなくてもよいのですけれど、仏様に手を合わせる事をされてますか。信じる信じないは関係ありません。この世が空だと思っている方は手を合わせればよいのです。
この世は空である。
実体が無いと拝むのは難しい、と思う方は朝夕ご自分のご先祖なり、仏壇なり、仏様なり、神棚なり。手を合わせるという、それだけの事をやると、これがすばらしい心の整理、整頓なりますから。そしてブッダは、この瞑想による正しい三昧によって智慧を会得しました。ブッダは、4つの行動をして会得しました。
ここに、ブッダはこの悟りを開いたのです。
悟りの智慧の体系は、快楽、精神統一、苦行、そしてこれが中道というものです。
中道というのは、悟りへと向かう実践活動のことです。ブッダはこの4つをして、
ブッダはまず快楽、これは29歳までやりました。
快楽は29歳までやっております。
それで、この時のこの全ての中心になるテーマ、いったい、何をブッダはこれを基礎にしたのでしょうか。
それには問題があります。
その問題が前に述べた四苦八苦なのです。
けど、四苦八苦というのは、生老病死ということなのです。
ブッダのテーマはこの四苦八苦だったのです。
人は年をとって、病気になって、死んでいく。どうしてこんな世の中に生まれてきてしまったのだろう。そしてその四苦に加え、
愛する人と別れる苦しみ。
恨んで憎みあってる人とめぐり合う苦しみ。
欲しい物を得られない苦しみ。
生き続けたいという執着心の苦しみ。
この8つの苦しみがブッダの問題だったはずです。
これが四苦八苦です。
それを解決する為に快楽をしているっていうのは、遊びほうけた訳ではありません。つまり29歳まで、この俗世界である私共のいる、この現実世界において、一生懸命この四苦八苦からの解放のための努力をしたのですけれども無理でした。
そして、29歳の時に精神統一の為に出家をする訳です。
出家をして、この四苦八苦からの解放の為に精神統一、ヨガをしました。このヨガというのは今でもずっと連綿と続いております。精神の集中により心を豊かにする、そうすれば生老病死、はじめ、四苦八苦はなくなるだろうと、したのですけれども、ヨガをしてる最中は心が安心するのです。みんなヨガで解放されると思うのです。でも、また、心乱れることがあり、そしてヨガをやりました。そしてまた心が乱れるヨガをやり減食、絶食等の苦行すること6年。想像を絶する苦行をするのです。
悪魔の誘惑について
ブッタは肉体というものをどこまで追求して行けば、こんなに大変な生老病死も解決すると思ってしたのですけれど、それが無理なのです。
でも、それで無理だと分かること自体がすごいと思うのです。普通であったら、分かる前にやりすぎてそのまま肉体のほうが・・・となる所だと思うのです。それをブッタは分かったのです。そして、苦行を止めて、川で沐浴をして、村にいた娘であるスジャータからちちがゆの施しを受け、気力の回復を図ったのです。そして、気力を充実させてから49日間の瞑想に入りました。
精神をバランス感覚をもって、整理、整頓することが瞑想です。
これが三昧と言うんです。いよいよ瞑想でここに座る。4つのプロセスをもって悟りを開くのです。これが有名な菩提樹です。今、現在ある菩提樹は4代目だったと思います。仏教は長い歴史がありますから、その間に菩提樹も枯れたのですね。
瞑想しているときに
貪瞋癡が悪魔の形となって「そんな、悟りなんかやめてしまえ」というのです。悪魔は私達の煩悩が擬人化したものなのです。悪魔は悟りを開かせたくなかったのです。つまり、私自身が私自身に悟りを開かせないようにしているのです。
ですから、なんとか悟らないように色々攻撃をしてくるのです。
その攻撃方法を見ていると実に私達の人間の弱いところを突いてくるのです。本当に悪魔は私達のことを分かっていると思います。どのようにしたかというと、最初に3人の娘を送ってきてブッタを誘惑しようとしたのです。色仕掛けです。若いピチピチした娘に誘惑されたら断れるかなあと思います。しかし、ブッタの心はそのまま乱されず、3人は老いて退散したのでした。
次に悪魔は、武器をもって脅かそうとします。
台風、雨、岩、剣と槍などでなぎ倒して今度は大けがを与えるなど、武力や恐怖の心をもって制圧しようとするんです。でも動かされない。乱されない。ブッタ以降も私達の身近で実践した人がいますね、ガンジーです。決して屈しない心を持つこと。そのため、それらは全部花々になって飾りブッタを祝いました。
しかし、悪魔も負けてはいません。
また、次に悪魔はブッタに言ったのです。
悟りへの努力をやめれば、世界一の権力王様にしてあげようというのです。誰でも、一番になりたい気持ちがあります。権勢欲とか制圧力があります。悪魔も賢いですよね。脅してダメなら悪魔は飴で釣ろうというのです。権力あげるから、それも世界一の権力です。なんでも思いのままだと言ったのです。かしこいです、普通ならよろめきます。でもブッタの心は動きませんでした。このように様々な形で悪魔が誘惑してくるのです。
よく考えれば、悪魔は身近に、すぐ近くにいるのです。
貪瞋癡となって悪魔が近くにいます。
これがいつも、私達の自己をさいなむのです。
いい事しようと思うと、貪瞋癡が止めた方がいいよ言います。
無駄だよっていって私達を邪魔するのです。
悪魔は私達そのものが形になって現れたものなのです。
大変難解な問題について
悪魔はブッタに最後は大変難解な問題を出すのです。最後の総攻撃をします。
最後に悪魔は、よし分かった私は負けたと認めるわけです。
悪魔は、さすがブッタだと言うんです。でも、誰があなたが心を、悟りを開こうとしているのを誰がこれを証言するのだ、とこういうような難癖をつけるのです。悪魔は本当にずる賢いです。本当にひどい。そのようなことは誰も分かりません。ブッタだって分からないのです。ブッダはそのようなこといつ悟りが開けるか分からないのにやっていたのです。しかし、その悪魔に対してブッタは、静かに大地を指で触れるのです。そうすると、大地の女神が現れて「私が釈尊の徳を証明する」と宣言するのです。そして悪魔はああそうだったのか、これにはまいったと退散します。
このような話は、実際に歴史上に起こったことだと思いますでしょうか。
ブッタの尊厳を高めるための迷信だと思うのでしょうか。
どちらの解釈もあると思います。
でも、ブッタと悪魔はやはり本当に戦ったのだろうと思うのです。実際、武力とか娘とかが現実としてでてきた訳ではなかっと思います。でも、ブッタの中にあった貪瞋癡(とんじんち)が悪魔の姿を借りてでてきたのです。つまりブッタのなかにそういった煩悩である見栄や地位、色欲、生命欲などの様々な執着が残っていたのかもしれません。悪魔の形になって、瞑想の中で戦ったのです。自分自身と戦ったのです。そして、このことは、常に私達は、自分自身の悪魔と戦っていかなくてはいけないことをあらわしています。
最後の質問はともても根本的だと思います。
普遍的です。
現実社会の私達の行為で悪魔のささやきはいくらでもあります。
そして、私達はそれに乗ったことも一度や二度ではないはずです。
私達は数え切れないくらいあっただろうと思います。
今まで悪い事をした人は、将来も悪いのです。
未来が有るか、つまり死んだ世界が有るか無いかというのは簡単です。
生きながらが死にざまですから。
生きざまが悪い方は未来永劫死にざまも悪いでしょう。
そういうのは厄介です。
みんな望んでいません。
だから、そんな事言わないで、この壺を買えば何とか未来が良くなるということを言う人がでてくる訳なのです。
壷で未来が買えると思ってる。
普通に考えればそんなことできる道理がないと分かると思います。物で未来は変わらないのです。
もちろんそのようなものは買ってはダメです。
壷を買わなくてもよくなることは簡単なのです。
つまり良い事をしている人は皆よくなります。悪い事をしている人は皆悪くななります。だから未来にくよくよする事はないのです。今をどのように生きればよいのか、良く生きればよいのか、それを考えながら良く生きればよいという簡単なことなのです。そこから未来が開けてきます。
輪廻するということについて
インドという国にはインドという考え方があります。輪廻するんだという思想です。
自分は生まれ変わり死に変わりですから、自分が生まれ変わり死に変わりした過去の事が、良い事をした時には良い事になります。悪い事した時の人間は悪くなります。自分の輪廻の前のほう、日本人には先祖と言えばご先祖様が良いご先祖様もいたし悪いご先祖様もいたという事で済んでしまいます。でも本当は全部、自分の徳がずっと先の先、前の前で様々な形で輪廻転生に生かされているわけです。
ブタの時代があったかもしれない。
ゴキブリの時代があったかもしれない。
もっと先に行くともうワニの時代からずっともうアメーバーの時代からもっと先行くと・・・わかりませんけど先の時代までが全部ずっと夜です。そして、明け方近くの後夜になるわけです。後夜とは夜半から夜明け前のころをいいます。現在の午前4時ごろの本当の夜明けごろを言うのです。
その夜明け近くになって苦悩の誠実と苦悩の転換とをするのです。
最も厄介な今の苦しみ、生老病死、現実の苦しみからの解放を、明けの明星と共に、会得するのです。
その時、ブッダは東を向いて座ったていて、見事に川の西岸から太陽が上がってくるのです。
ブッタガヤに行くとこのような状態でブッタが悟った様子がよく分かります。
そのままの状態なのです。
そしてその時に
流転文というのは、つまり苦しみの六道輪廻に次に生まれ変わり死に変わりするサイクルのことを言います。
これを流転文と言うのです。
この流転文の場合はどこから始まるかと言うと、人間は老いて死ぬという、老いて死ぬ老死になります。老いて死ぬというのは生まれてからだということになります。生まれて存在する。存在することは死ぬということなのです。そこで、ぐるりと回って来てそして死んでいくものなのです。結果、死んで1番厄介な事は、死ぬ原因は、貪瞋癡(とんじんち)であるという事が分かりました。そして逆に、貪瞋癡を無くせば行動も無くなります。今度は逆の展開をしていく事によって悟りの世界へ到達します。よって現在の苦しみは、これが未来であり過去であるということなのです。そして現在の苦しみ全てを加味しました。未来というものは不安です。ではどのようにすればよいのか、ということになります。
でもその答えは簡単です。
今を正しく生きればいいのです。
死んだらどうなる、死んだら生きていたときの行いによって輪廻転生にあいます。
これ程簡単明瞭な答えは無いのです。
ですから私達は、今日こうやって八正道を勉強しているのです。
死んだら後の世界が出現します。
そういう事をここでブッダは未来、過去、現在を見ています。そして、270km西にありますベナレスにおいて説きました。ここで一生懸命修行しました。ここで修行した仲間がいると思ってその
「
苦しみに関する聖なる真理とは次のようである。生まれる事も苦しみあであり、苦しみは老いる事の苦しみである。病む事の苦しみであり死ぬ事も苦しみであり、憎い者たちと会う事も苦しみであり、愛する者たちと別れる事も苦しみであり、得られるものが得られない苦しみであり要するに執着からの苦しみである。全ては分身である。」
これは35年間の努力の結果に見事に現実の苦しみの最も本質的な原因を述べています。
解決案の結論を次に述べます。
「
すなわち、欲望を棄捨すること、捨離すること、離脱すること、執着を去ることと結論付けます。
ただ、こう結論付けても、これはあくまでもブッダが35年間の実践を通して最終段階に来てからです。
心の乱れについて
そこにブッダが、聖なる訳書にして、すなわち正しい展開、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい意識、正しい心の保ち方としたのです。
これがブッダが35年の実践の中から研ぎ澄まされた八つの正しい道であると示す訳です。ぎりぎりの35年間で得たすべてを提示するのです。この最後の所があるから、私達、凡夫はほとりに行ける手立てを会得出来たのです。
そこで八正道を会得します。
いよいよです。
この八つの八正道、これが
曼荼羅というのは仏の世界をあらわします。
仏の世界というのは15次元位あるのです。
20次元とも言われております。
仏の世界、それを二次元の紙の上に曼荼羅として表現したのです。
そしてこの曼荼羅というのが仏教で密教を開発した智慧なのです。
多次元の表現を二次元にしてしまう、これが曼荼羅です。
解決はこれまでの七つの実践を継続することです。
つまり心が乱れるでしょう、心が乱れると心臓がはかはかになります。つまり心が乱れると全てが乱れます。「病は気から」その通りだったのです。ですから心が乱れない様にしないといけません。心が乱れない様にするためには、いままでの八正道のうち7つの実践をすることです。それをしていない、実践をしてない人は心がとても乱れるのです。その中で心が乱れるのは駄目なのです。つまり心が何故乱れるかというと簡単なのです。心が何故乱れるかというのは明確なのです。次の一手が間違った方は心が乱れる訳なのです。
心が乱れるということは、問題が発生した時の次の一手のとり方を間違った人は心が乱れます。
問題が起こったから心が乱れるのではないのです。
本題はフッっと出てくるのです。
問題が起こった時に次の一手で大体心が乱れるのです。
問題で心乱れる訳ではないのです。問題が起こった時は必ず問題が起こるその前にまだこれがあるのです。自分の過去の行為が出てくるという、こういうことです。自分の過去の行為が仕掛けられて問題が深くなっている、こうなっているでしょう。自分の問題が起こったって考える、何にもしないで突然出てきて、ということではないのです。
サラ金に金借りるからサラ金が来るのです。
御免なさいサラ金でございます、一億返して下さい。ある日勝手にやってくるわけではありません。自分が10万円借りて返さないのでは半年たって50万円です。それでサラ金のお兄さん達が来るのです。問題というのは必ず自分の過去の行為があって、それから問題というのがあるのです。問題というのはそうそう単純ではないのです。問題というのは縁が必ず出て来ます。問題発生というのは縁で出てくるのです。
そうすると問題が出てくると自分に必ず過去にあった何かによって出てきた。「あっ」と分かる。それで「あー、やらなければ良かった」それで動揺して、そうするとまたそれに上塗りをするようなこちらの行為に走っていってしまいます。それでおかしな事になるのです。だからどんな感情か分かりません。これが、それになり出てきた時には、ここでどんな問題が起こるか、ここでこの問題を断ち切ろうとします。断ち切る為には解決は八正道で行ないます。
サラ金の原因は分かりました。
問題はこの世は空である、分かりますかサラ金のお兄さんたち。
難しいのです。
その事が起こったらひみの持っているものもとめの法を使うのです。まさに八正道というのはひみの持っているものもとめの法を取り入れるのです。いったいこれがどうして問題の発生の次の一手に使えるのか。つまりこの八正道というのは、人間は問題を発生しているのだという所につながることをご理解して頂ければすぐ解決します。
問題が出てくることは過去の自分行為にあるわけです。
あの人がこうしているから、みんながこうしているからと言ってる人には八正道は使えません。八正道は使わないほうが良いのです。八正道はもう全然お呼びではないう人はたぶん八正道ができません。八正道というのはどうしたら使えるかというと全ての原因は我に在りとされる方だけです。全ての原因は我に在りという考え方の方しか八正道は使えないのです。
「原因は我に在り」について
何故、全ての原因は我に在りという考え方かといいますと、ここで縁という事が分からない方は使えないという事です。
縁という事が分かるという事は空という事が分からない方には使えないという事になります。ですから、私は正しいという屁理屈を言う人には合理的な会計士を使う事になります。
合理的な弁護士を雇う事です。
事実アメリカではそうなっています。
その御蔭でエイズが流行り、その内アメリカ国内がおかしくなるでしょう。
ですから八正道はこれから益々重要になります。
ですから曼荼羅を、これは必ず1番見える所に置いてください。
これだけはコピーを撮っても威力が有ります。
これは経営計画の中に丁寧に入れておくことです。
すなわち、正しい見解、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい記憶、正しい瞑想です。
そして八正道のこの八正道というものは全てこれは経営につながるような展開で上手く定義されています。つまり企業というものが経営上八つの展開で押さえられます。決算、理念、計画、実践、完了、生産、品質、開発、この八つの事が無いと会社は経営出来ません。それが見事に八正道につながるのです。決算というのは正しい見解です。決算書を見ていると心臓発作を起こす方が居ますけれども。そして経営理念、正しい思考というのは経営理念です。そして、正しい言葉、これは計画、有言実行、言った事は実行することです。つまり正しく言葉で発するという事は計画性をしっかり持つ、しかも実践する事なのです。そして環境整備は正業、精進は生産性向上、正念というのは品質管理、正定というのは開発です。
つまり正しくこれらを整理整頓されていると、人間というのは必ず良いものを作ろうと、今よりも良いものを作ろうという、今よりも良い行動をしようという不思議な能力を持っています。だんだん時間が早くなりますね。何やっても一流の方がいらっしゃる、二流の方もそうです。だんだんその事が分かってくると早くなる、そういう不思議なものを持っています。心が整理されて改正されてきます。
改正されてくると開発なのです。
開発をしっかりしています。
その為には心がしっかり整理整頓されなければいけません。
新商品開発そういう時にも最終的には瞑想によって開発されます。
研究開発というのはこの四つの事をする事です。
研究開発というのは何をする事かというと快楽、ヨガ、供養、善をする事です。
法人運営を行なっている私が1番感じますのはやはり精進というのが重要な意味があると思います。是非一つ精進というものをしっかりと確立して頂く事が経営で最も重要だと思います。精進というものを常に開発する。そういう精進を開発改善していくそれが要するに新商品開発につながります。その時にやることは四つの行為を真剣にやることです。つまり御釈迦様がされたのと全く同じです。
現状をよく踏まえ、一般通念の努力をします。
そして精神統一の実践をし、そして我を忘れた心底を忘れた徹底的なその開発の為の時間をとり、そしてそれからもっと、忘れた時に開発するのです。これを中道といいます。中道というのは中にかかる、中道というのは目標です。目標に当たる事を中道といいます。
行動をお釈迦様はこの四つの行動を取る事によってここに開発します。世の中の開発というのは全部これです。ニュートンは万有引力をリンゴの実が落ちる事によって、発見しました。我々はリンゴの実が落ちたら、ああ、落ちたなと思います。それをニュートンは、リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのでは、と着想した、ということなのです。
ニュートンは万有引力のひらめきの際「瞑想にふけっていると、たまたまりんごが落ちて、はっと思いついたのだ」と語ったそうです。
いかに、その瞑想が心にもたらすものが大きいかということが分かります。
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